社長コラム

もうひとつの「型破り」ー中村勘三郎の1周忌を偲ぶ。

早いもので歌舞伎役者中村勘三郎が亡くなり、12月5日で1年が経った。 今年3月のコラムに、中村勘三郎の「型破り」を書いたが、今回は1周忌を偲び、もう一つの 「型破り」をコラム欄に載せることにした。


日本を代表するロックンロールシンガー矢沢永吉は、その独特な雰囲気で異彩を放ちながら、ロック界 に長年君臨している。その強烈な個性は、彼独自の「らしく」の世界をつくり出し、大勢のファンを惹き つけて止まない。


ただ、その個性は、中村勘三郎の「型破り」の世界とは、明らかにスタイルが違うようにみえる。 その違いは何か?中村勘三郎の「型破り」の切り口が、内⇒外に広がっていくのに対し、矢沢永吉 の場合(切り口)は、外⇒内に向かっていくイメージがある。


例えば、アンパンはあんこというコアな部分があり、それを包むパン生地があって、はじめてアンパンと言える。 つまり、最初にあんこという型をつくり、その型をパン生地が包み、内⇒外に広げ、最後にアンパンになる。 中村勘三郎に代表される、初めに型ありきは、コアな部分を何度も何も繰り返し、反復することで、 そのうち型を破っていく、その経験と共に形は培われ、芸を極めていく。まさにオーソドックスな内⇒外へと 向かった型破りである。


これに対し、矢沢永吉はどうか?最初からアンパンのイメージありきで、外(形)⇒内(基本)に入って いった感がある。これもまた中村勘三郎とは異なる、もうひとつの「型破り」とも言えよう。


人間、二通りある。現実家は、自分の目の前にある現実という階段を一歩づつ、確実に駆け上るとすれ ば、理想家は、自分の憧れのイメージを膨らませ、それに近づくために現実と戦っている。 自分が理想とするものに、外側から何千何万回も金メッキを繰り返すことで、本物の金になるのである。


中村勘三郎のような、内(現実)⇒外(理想)に向かい進んでいく人間は、そのうち今まで見えな かったゴール(到達点)が、やがて見えてくる。一方、矢沢永吉のような、最初にゴール(到達点) が見えている人間は、そこから逆走するかの如く、ゴール(到達点)下の足元を基盤固めしていく。 人それぞれ自分のスタイルにあった「型破り」があるのかもしれない。


いづれにせよ、内⇒外、また外⇒内と、型を破るやり方は異なるものの、共通していることは、「型破り」 をすることは並大抵の努力では出来ない。艱難辛苦を乗り越えて、はじめて得るものであろう。 偉大な登山家が、高い頂を目指し、険しい山道を登る過程に、喜びを見出しているように、 我が人生も、そうありたいものである。


平成25年12月9日

 

Will,Should,Must ー 楽天日本一の原動力とは?

今月11月24日に、仙台でプロ野球で初の日本一となった、楽天の優勝パレードが 行われるそうだ。東日本大震災で被災された東北の皆様の歓喜する姿が目に浮かぶ。

シリーズを通して、楽天各選手の被災した地元東北ファンのために、一生懸命にプレー する姿に感動した。選手のやるべきことを成そうとする使命感は爽やかで、素晴らしい。


楽天日本一の原動力は、個々の選手が、Must(与えられた役割と責任)を超えて、 Will(自己実現)に最も近づいた、Should(誰かの役に立つ存在)から生み出さ れたように思える。


Will

 意志(成りたい自分になる)     =自己実現

Should

 使命(自他共に認られる存在となる) =自律的(誰かの役に立つ)

Must

 義務(与えられた仕事を忠実にこなす)=他律的(役割と責任)

話は駅伝に変わるが、高校駅伝の名門校、西脇工業は、1区,2区,3区・・・の走者の 選考について、監督が選考するのでなく、監督はキャプテンに権限移譲するそうだ。

キャプテンは選手全員と話し合って選考し、監督は選手を信頼し自主性を重んじて、好成績 (成果)をあげている。監督は選手達に任せた後は、彼らの行動を見守り、判断を誤りそうな 時にのみアドバイスをする。「選手に考えさせる、気づかせる」ことを基本に置いて成長を促すそうだ。

①自分達で気づく(失敗を通して得たもの)=経験から学ぶ=復習

②自分達で考える(現状分析/評価)=コンセンサスの決定


これこそが、Must(義務感 他律的 外圧で動く)を超えた、Should(使命感)の考え方なの かもしれない。自律的(内圧で動く)当事者意識=自分が主役=誰かの役に立つ存在として。

自分が自他共に認められる存在だからこそ、別の個である相手の存在価値を認めることが出来る。 (個々が互いに尊敬し合える仲間となる)


野球チームに例えると、個々の選手への権限移譲⇒ポジション(位置づけ)⇒役割(守備範囲) ⇒責任が発生⇒チーム組織が成立⇒成果を求めた行動となる。


誰かの役に立つ存在のその「誰か」とは?まさしく被災して頑張ってきた地元東北のファンそのものである。

優勝は、個々の選手、チームが、そのファンのために戦い、勝利し、役に立つ存在として、自他共に認められたものであり、組織(チーム)が成り立ち、組織(チーム)がファンと一つになった瞬間であった。


平成25年11月14日

 

自分を知るー 「Who am I ?」レ・ミゼラブルより

レ・ミゼラブルは今年見た映画の中で最も印象深い作品の一つであった。

以前アメリカのブロードウェイで同ミュージカルを観たことがあるが、20年経った今、物語の主人公ジャン・バルジャンの葛藤、自分の責務を全うしようとした悪役ジャベールの心境に共感し、感動が増したのかもしれない。


レ・ミゼラブルの中で繰り返し出てくる 「Who am I ?」は大変深い言葉である。

西洋の「汝自身を知れ」、東洋の孫子の兵法「知彼知己、百戰不殆」=「彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず」に通じるものがある。


「Who am I ?」自分がどこから来て、何をして、どこに行こうとしているのか?

そして自分がこの世に生を得たということは、どのような意味があるのか?


よく異国に行くと、日本のことが判るが、それは、その国と相対比較するからであろう。

自国(自分)の中に居るとよく、自国(自分)のことがよく判らないことと同じだ。


人間は相手のことはよくみえる(判る)が、自分のことはよくみえない(判らない)。

何故か?相手のことは客観的にみえるが、自分のことは主観的でなかなか客観的にみれないものだ。レ・ミゼラブルのジャン・バルジャンは悪役ジャベールを自身の鏡にすることによって己をみつめた。自分にとっての正義とは?善とは?悩み苦しみ、己を知ろうとした。

結局死ぬまで「Who am I ?」と自分に問うていた。


「自分の存在とは何か?」「自分の役割は何か?」「自分にとって何が幸せなことなのか?」

その答えは、自分でしか判らない。ただ言えることは、自分が与えられた場所で、ひたすらに「自分の役割を果たすこと」、レ・ミゼラブルのジャン・バルジャンから学んだことである。

日々の努力を続けていれば、いつか辿り着く道がある。


「Who am I ?」は、己を信じ、厳しい現実の中でも、希望を見失なわず、勇気をもって進んでいく中で人間に課せられた、一生をかけての宿題かもしれない。


平成25年10月31日

 

ゼロ歳からの就活

 最近は「コミュ障」という言葉があるそうだ。ネット上の造語らしいがコミュニケーションのとり方が著しく苦手という意味らしい。原因はいろいろあると思うが、日常生活で「おはよう」、「今日はこのような出来事があった」などたわいもない会話が家庭の中でない、ゲームや携帯に夢中になって会話がないなどにその一因があるような気がする。

そのような人間がさて就活を始めて企業に就職したいといっても、急にコミュニケーション能力が向上するものではない。弊社にも若者が入社してくるが、中には入社時に「おはようございます。ありがとうございます。すみません。」と言えない者がいるのにはびっくりする。これは幼少期に家庭で学ぶことであり5,6歳の子ができてしかるべきことなのだ。


つまりヒューマンスキルとテクニカルスキルの二本立てで人間の能力を考えた場合、ヒューマンスキルは生まれたときからまず家庭で施すものであろうが、家庭教育が崩壊している現在、基本の出来ていない人間を会社が一から教育していかなければならない。これは弊社だけの問題ではない。企業がその教育につぎ込む時間と金を考えたとき、経済損失は大きい。日本の社会問題であり、経済成長の妨げの一因にもなる。


テクニカルスキルが先行してしまっている今、知識の前にもっと大切なことがあることを忘れてはならない。言葉がしゃべれない赤ん坊に目線を合わせて親が語りかける、しゃべれるようになったら子供の話に耳を傾ける、返事をする。毎日毎日繰り返すことによって、それが20年の後に社会に出たとき大変役立つ能力になるのである。


早期教育で知識を詰め込むことも結構、しかしながら家庭生活の中で、また友達との遊びの中でコミュニケーションのとりかたや思いやりなどの人格形成を育むことが最も大切なことである。また様々な体験から感じる力を育むことによって、人間は素直に成長する。愛情という水を素直な人間に注げばどんどんそれを吸収し成長する。頑固な石頭の感性の乏しい人間に同じように水をそそいでもそれがしみない。水をかけてもかけても表面をつたって流れてしまうばかりだ。可能性無限大のこどもを石にしてはならない。我が子が自立して自分の力で生活できることを目的とする子育てをしていきたいものだ。


平成25年10月16日

 

大海を知る 考・半沢直樹

荘子の格言に「井の中の蛙 大海を知らず」がある。
筆者の自宅近くに霞ヶ浦がある。休日にはその広々とした風景を見ながらよく散歩する。そこにいる魚達は霞ヶ浦に連なる大海(太平洋)の存在すら知らない。霞ヶ浦を太平洋と思いこんでいるのであろう。


最近、TV高視聴率番組「半沢直樹」を観た。時代劇のように、主役と悪役の役回りがわかりやすく、臨場感に溢れた痛快ドラマである。
私の心に残ったセリフは「この夜景の明かりの下には、人々の暮らしがあって、その人々を幸せにするために銀行マンがいる」半沢直樹が妻に言った言葉である。


ドラマでは銀行という世界を内側からと外側からの目で見ている。内側から見れば、権力闘争等の生々しさが見えかくれするが、外側から見ると、銀行は社会の公器であり、銀行により企業も市民生活も成り立っていることを忘れてはならない。
そういう意味では、ここで言う銀行の社会への役割が大海であろうか。


ともすれば、我々も日々の生活に追われ、大海を見失いがちになる時もある。
しかし経営者はその務めとして、社員の家族や生活を常に念頭におかねばならない。当社はIT企業である。世界には、また日本には、どのくらいの数のIT企業があり、世界市場の規模はどのくらいで、当社のその中でのジャンルは?位置づけは?今後どのジャンルが成長分野になるのか?当社の戦う戦場は?競合他社は?をも考えなくてはならない。


人も企業も、井の中の蛙にならないように、つねに大海を知る必要があるのではないだろうか。
次の半沢直樹シリーズ、主人公の大海での活躍を楽しみにしている。


平成25年9月26日

 

9.11 追悼 人を動かすものとは?

今から12年前の今日、アメリカでの同時多発テロで多くの方が犠牲となった。
今でもこの日に起こった悲惨な映像が目に焼き付いて離れない。
改めて心から亡くなられた人々のご冥福をお祈りしたい。


9.11の後ブッシュ元大統領のイラクへの報復宣言から第二次湾岸戦争が始まり、イラク国内では多くの市民が犠牲となった。戦争という判断を下し、人々を誤った方向へ導いてしまった当時の大統領の罪は大きい。そこで人々を正しい方向へ導くことについて企業経営者の立場に置き換えて考えてみた。


人を動かすものとは

1.利害=金銭力

2.権力(権限)と権威=権力=力 権威=部下に対する威厳(厳しさ)=威

3.愛=人徳(人柄)

4.理念=正しい考え方 

上記1,2はどこの企業でもあることだ。
では、人間は力関係だけで動くのであろうか?力を超えるものとは何か?人が本来持ち合わしている愛の力は利害、権力、権威を超えるものではないだろうか。
恋愛⇒夫婦愛⇒家族愛⇒人類愛⇒自然愛への愛というように愛には様々な形があるがその愛の本質は、人に対する優しさ、思いやり、温かさ(慈愛)であり、人徳(人柄)であろう。
では利害、権力、権威と愛さえあれば人は動くのであろうか?
それらに加え理念(考え方)がないと方向性を見失う。どこに進めばよいのか迷いを生じる。
つまり正しい方向性(理念)をトップが示さなければ、組織全体が間違った方向に向かう危険性が生じる。
理念とはトップの考え方であり、旗を掲げるようなものである。


その意味では、9.11 という悲惨な歴史を風化させないためにも、我々も一人間として、利害、権力、権威だけではない、愛、そして正しい理念(考え方)で人を動かしていかねばならない。
その責任がトップにはつねにある。


平成25年9月11日

 

「ゆるキャラ」くまモンとパーソナリティ

最近、熊本県の「ゆるキャラ」くまモンをよく見かける。各自治体での町起しの火付け役として、全国的な「ゆるキャラ」ブームはまだまだ続きそうだ。


今から35年も前になるが、筆者は以前アメリカ・オレゴン州ベンドという町でホームステイしたことがある。そのお世話になったファミリーのご夫妻と、一緒に旅行したときのことである。
旅先の思い出の一コマではあるが、車で通りかかった家の屋根の戸井から落ちてくる雨水の水滴を大きな犬が水滴一滴毎に、パクリパクリと口を開けながら飲んでいた。
皆で大笑いしながらご夫婦がこう言った「He is a character!」と。その時に初めてキャラクターの意味が何となく判ったような気がした。


キャラクターに似た意味の言葉にパーソナリティがある。ではその違いは何であろうか?
意味を混同しやすいが、キャラクターはその人の持っている先天的な生まれつきの「性格、個性」パーソナリティは先天的な「性格」に後天的な要素を加えた「人格」ということかもしれない。
キャラクターは、その人の性格、個性であるとすれば、変えることはできないが、パーソナリティ(人格)は磨いていけばいくほど、いくらでも変えられるものであろう。


ヤンキースのイチロー選手は、強いキャラを持ちながら、人並み外れた努力によって、4000本安打という偉業を成し遂げた。つまり天賦の才能に恵まれながら、研鑽を積むことにより、イチローはイチローでしかない世界にただ一つだけの花を咲かせたのだ。


「ゆるキャラ」くまモンは、あくまでキャラであり、努力というパーソナリティは持ち合わせていない。
私たちは、人間として生まれてきた以上、その個性を活かし力一杯生きて天分を全うしたい。


仮に、くまモンがパーソナリティという人格を持ち合わせたとすれば、くまモン恐るべし!になるであろう・・・


平成25年8月29日

 

長所と短所の関係は?

人間すべてに於いて完璧な人はいない。誰にでも長所と短所がある。
一般的には、人間の短所は長所と比べると直ぐに目につくが、長所はその人間をよく観察し、理解するまでにはかなりの時間がかかる。


江戸時代の儒学者、荻生徂徠は「人を用いる道は、その長所をとりて短所を構わぬことなり」と述べている。人の短所ばかりを見ず、長所を引き出すことで人は活かされるという意であろう。


人の持つ強み(長所)を活かす意の言葉に適材適所がある。誰しもそうであるが、人間は自身の持つ長所で勝負したいものである。そのためには組織は何をするか?例えば、組織にAという人がいて強み(長所)と弱み(短所)があるとしよう。
適材適所の考えではAの強み(長所)はそのまま活かせばいいが、弱み(短所)はどう補うか?
考えられる仕組みとしては、Aの弱みはBという人の強み(長所)で補い、Bという人の弱み(短所)をCという人の強み(長所)で補うことが最適であると思われる。これを当社では「くさび形効果」という言葉で言い表している。個々の社員の持つ、強みの連鎖、最大化のことである。


勘違いしてはならないことは、ここで言う短所(弱み)とは、その人の社会人としての基本道徳がないないことを短所(弱み)とは言わない。基本は当然出来ていて、その上での短所(弱み)を指す。


ただ、よくよく考えてみると、長所と短所は表裏一体の関係ではないだろか?ある人の「頑固さ」という短所は、ある場面では「信念がある」という長所に置き換えられる。


私の見方ではあるが「長所」と「短所」の関係は、例えば山がそこにあるとしよう。
山に日があたる方が長所となり、あたらない日陰を短所とした場合、その関係は、時として日が差す角度(時、状況、人の見方)により短所が長所となり、逆になることも考えられる。


人間の持つ長所(強み)と短所(弱み)は、その人の持つ個性そのものようなものであり、その個性の強さを、キャラクター(自分の持ち味=らしく)と総称しているのではないだろうか・・・


人間のキャラはその長所が大きければ、短所は愛嬌になる。人間簡単には短所は直らない。とすれば、自身の短所への「気づき」がとても大切になる。
そのためには、まず自分を知る。自分が何者であるのか?自分の長所・短所を知り、自身を活かすことが肝要ではないだろうか。


平成25年7月31日

 

Tomorrow is another day

映画「風と共に去りぬ」の最後に、主人公のスカーレットが「Tomorrow is another day!」と叫ぶシーンがある。絶望のふちにありながら、明日に希望を託すというメッセージだ。


震災から2年4ヶ月経つが、震災で家族・友・財産を失った人々と、子供・夫・大切な友・財産を次々と失ったスカーレットが重なってみえる。自分だったらどうやって立ち直ることができるだろうか?はたして立ち直ることができるだろうか?


スカーレットを演じたビビアン・リーは私生活においても波乱万丈の生涯だったそうだ。彼女にゆかりのある男性が「彼女の人生は幸せだったのでしょうか?」とのインタビューに「彼女は幸せとか不幸ということではなく、力強く彼女の人生を生きました。」と答えていたのが印象的だった。


なるほど、幸せか不幸はその結果であって、与えられた人生をどれだけ真摯に精一杯生きることが大切なのかということに気づかされた。
私達は、幸せ不幸せの切り口で自分の人生を決めつけてしまいがちだ。「風と共に去りぬ」のタイトルのように、人生は「風のごとく」瞬間瞬間の連続である。一瞬一瞬に幸せな時、不幸な時は訪れる。元気に働いている人も、病気と闘っている人も、今を精一杯生きる人にだけ「Tomorrow is another day!明日は明日の風が吹く」という言葉がゆるされるのであろう。先の見えない世の中だからこそ今日を精一杯生き、明日に希望を託したいものだ。


平成25年7月10日

 

My company ・ Our company ・ Your company

今日6月25日は当社アイナスの22回目の設立記念日である。
今振り返ると会社設立前の9ヵ月は個人事業として自宅の一部屋を事務所にしてMy companyをスタートさせ、未来を創造していたものだ。


■1st stage

=My company 

私の会社(トップダウン型)

設立~10年

■2nd stage

=Our company

私達の会社(集団型)

設立~20年

■3rd stage

=Your company

お客様達のために存在する会社

設立~30年


そういう意味では、最初の個人事業主の時期はMy company以前のPrivate companyだったかも知れない。


今や誰もが知っている世界的企業も最初はMy company私の会社からスタートした。
当社もそうであったように、My companyの時期は個性の強い社長のもと、トップダウン型で会社が動く。多くのベンチャー企業/中小の商店は黎明期の苦難の道を歩みながら今日に至っている。


それを山登りに例えると,社長は会社の重たいリック(荷物)を背負いながら山頂を目指しており、天候の変化(市場変化)に伴い,荷物も増えて早く進むことの困難が生じてくる。(社長が止まると会社も止まる状況)


そこでNext10年はMy company⇒Our company 私達の会社(集団型)にに移行する必要性が生じてくる。その成長発展のために,会社はチームを創り、個々の社員に役割(責任)を分担し,新チームへのルール化と権限委譲の仕組みづくり(運用システム)を行う。


そしてMy company⇒Our companyの先に、最終形として、Your company お客様達のために存在する会社がある。


過去は受け入れるもの、未来は創り出すもの、今は生きるもの。
当社アイナスは道半ばであり、この先どのような未来が待っているのか?次のNext10年が楽しみでもある。


平成25年6月25日

 

となりの芝生は青くない

The grass is always greener on the other side of the fence.

隣の芝生はより青くみえるという羨望の句です。この句から古今東西問わず、他人が気になることがわかります。

隣が新車を買って「羨ましいな」と思うことがある。しかし自分もいつか買おうと頑張り、努力実って新車購入という結果が得られればよいではないか。隣人が大変幸せそうにみえ、自分がそれに対し劣っているのではと感じる時、嫉妬というマイナスの感情が湧く。しかしその時に、私はどうやったらもっと幸せになれるのだろうかと考えてみよう。そうすれば前向きな行動計画が頭に浮かんでくるであろう。

そもそも隣の芝生に足を踏み入れれば、自分が思っていたほどに芝は青くないということがわかるものだ。新車はいつか中古になるのである。「いつか私の芝生も青くなる」と思えば、素直に他人の喜びを我が喜びにすることができるだろう。そして「自分の芝は自分で青くするもの」であって「他人が青くはしてくれない」ものである。ちなみに福沢諭吉の「学問のすすめ」では怨望が人間の一番の悪と説いている。怨望の対極にある自主自立という意味がすこしわかったような気がする。


平成25年6月12日

 

中庸

「中庸」という言葉がある。中国の古書の中でも最も重要な教えであるらしい。
その一節に「中庸の徳たるや、それ至れるかな」がある。その意味をひも解いていくと「過ぎることなく、及ばぬこともなく、常に変わらないことが、徳として最上のものである」という解釈となる。


そう言えば、以前、成田山にお参りに行った際に、高僧から「中庸」の説法を聞く機会に恵まれた。高僧は扇子を横に寝かせ、手の下で支えてバランスを取る位置は、長さに対する真ん中とはかぎらない。
長さと重さの加減も取るバランスが求められる。この扇子を支えて良い塩梅、均衡をとることを「中庸」と言い、その中でも「心の中庸」これが人の生活を送る上でとても大切であると。


同じ中国の古書、菜根譚の一節に「いい加減」という同義語がある。
経営も同じことが言える。経営はバランス(正と負)そのものかもしれない。
貸借対照表のことをバランスシートと言うではないか。
バランスのとれた経営を突き詰めてくと、その原点にあるのは中庸であろう。


よくよく考えると、斯く言う私自身、過去の経営において、幾度もなく、このバランスを欠き、苦い経験を重ねてきたような気もする。


これからは、さらに自分を知り、心のバランス(平常心)を保ち、経営バランス(収入⇔支出.攻め⇔守り.定性⇔定量.長期⇔短期.感性⇔理性)を考慮した「過ぎたるは及ばざるが如し」の「中庸の徳」で本来の意味での「いい加減」の経営を推し進めてまいりたい。


平成25年5月17日

 

登竜門

5月に入った。辺りを見渡すと新緑になり、その香りが漂いとても心地よい。
空を見上げると、青空の中に雲がゆっくりと流れ、さわやかな風が吹いている。
その中を鯉のぼりがゆっくりと風にゆられている。何とも平和な気分だ。
海外の人達からみると、きっと不思議な光景であるに違いない。


さて、先日つくば市にある某大学のサークルからの依頼で新歓(新入生歓迎レセプション)にゲスト出演し「社会から必要とされる人材」について新入生との間で質疑応答を行った。これがまさに新入生達にとっての最初の登竜門である。
これから社会で揉まれながらいつくもの登竜門をくぐり抜けていくことであろう。


「登竜門」という言葉を調べて見ると、中国の竜門山という所に「三段の滝」があり「三段の滝」を登り切った魚は昇天して「龍」になるという。春の季節になると、多くの魚が滝の下に集まり、この滝のぼりが「登竜門」となり、端午の節句の「鯉のぼり」はこれに由来しているそうだ。


滝の下に集まる多くの魚は、未来に向かい「三段の滝登り」をしようとする上昇志向のある若者達である。一段登ってまた一段。何とも微笑ましいではないか。
思わず「若者達よ!頑張れよ!」とエールを送りたくなる。若者達の未来に期待したい。


空を見上げると今日も5月の空に鯉のぼりが元気に泳いでいる。


平成25年5月2日

 

迷いと悩みの違いとは?

4月に入り、あちらこちらで新入社員の姿を見かける。何とも微笑ましいものである。 これから先、新入社員が日常生活を送る上で、多くの迷いと悩みに出くわしながら、成長していく姿が目に浮かぶようだ。


さて、迷いとは、どんな時に使われるのであろうか?一般的には、迷いは就職活動等、人生の岐路で「自分が進むべき道はどの道なのか?」と何か選択に迷う時に使われるような気がする。


では、悩みはどうであろうか?会社での人間関係等が上手くいかず「どうしたら上手くいくのか?」と悶々とする。そんな時に使われそうだ。


仮に「迷いと悩みはどう違うのか?」と質問されたとしよう。さて、自分なら、どう答えるだろうか?私であれば「迷いと悩みは似て非なるものであるが別々のものである」と答えるであろう。


では、その違いは何か?「迷い」は対象が不明確な故にどちらを選択していいのか分からない状態を指し、己の迷いを解消し、とわられず、ぶれないためには、物事の真理(真実の道理)を追求し、己の信念、哲学、信仰等の迷わないための精神的支柱を持つことが大切である。


つまり「迷い」は自分の信念、思想哲学(企業理念/経営理念)が確立されていれば、とらわれたり、ぶれることもなく進むべき道が見えてくるのではないだろうか。 自己の精神軸さえしっかりと確立されていれば、迷うことが少なくなるように思える。


他方、悩みはどうであろうか?悩みとは、今自分が問題意識している対象が明確であり、その中で進むべき方向性の中で解決策を探し求める。 そのため、悩みは正しい判断基準が求められる。 その正しい判断基準とは、識見(物事を正しく判断する力)を磨くことであり、また過去の自己の失敗経験から学んだ気づきであり、そこから判断基準が養われる。


ただ、悩みは「人生が思うようにいかない、経営者は経営が思うようにいかない」というように、最初に思ったことの2割~3割しか上手くいかない。 これが世の常である。経営で言う、P(計画)⇒D(実行)⇒C(分析評価)⇒A(改善)である。


だから、人は悩み解消の確率を上げるために、我々は悩みの種である課題を克服しながら生きていく。 つまり、悩みがあるから成長していくということになる。 簡単に克服することが出来ない悩みがあるからこそ、その簡単ではない悩み(課題)を克服した時は大きな感動がある。


志を以って前に進むことで「人生には悩みはつきない」とよく言われる所以はここにあるような気がする。 迷いは消すことができるが、悩みはつきることはない。 迷いと悩みは、やはり似て非なるものであり、「人生に迷うことなく、人生の悩みを我が友にする!」この精神で我が人生の旅を歩んでいきたいものである。


平成25年4月18日

 

経営者にとって大切な3つのつかうもの  (時間・ カネ・気遣い)

ふと考えてみた。経営者にとっての3つの使うものとは何か?と・・・
すると、時間・カネ・気遣い、と自然と頭に浮かんできた。


「時間」は、経営者ならではの大変価値の高いものである。
経営トップが自身の時間をどう使うかで会社の発展成長は決まる。
毎日の問題整理(分析)をし、改善方法(戦略)を考え、人材を育成し、意思決定、将来ビジョン構築、資金調達、また多くの人と会い、いつも多忙な経営者は、時間をどう有効的に使うかが最重要課題となる。


経営資源は大きく「人・物・金」と言われている。その中でも「カネ」は経営者にとって現実そのものであり「カネ」がないと会社の維持が出来ない。
ビジネスという戦場で軍資金がないと勝利する以前に戦が出来ない状況となる。「カネ」があれば、人は雇用でき、物(商品)は生産調達することが出来る。特に不況時は経営者の資金調達の力量が問われるところである。
他方「カネ」は無駄金を使わず、使うべき所にはきちんと使うのが基本であろう。何事もバランスが大切である。


では「気遣い」はどうか?よくよく考えると「気」を遣う、その先には「人」がいる。「人」を思いやることで、互いが良い感情を共有できるのではないか。
組織の長である経営者が、日常の中で今自分に出来る「気遣い」をお客様に、また身近な人達(社員達に、家族)に対し、施すことで良い人間関係を築きながら、お互いが感謝し合い、活かし合うことが経営者の務めであろう。
「時間」「カネ」「気遣い」は経営者にとって3つのつかうものである。


平成25年4月2日

 

寛恕

「人を信頼するのは、98%にしなさい。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておきなさい」これは「置かれた場所で咲きなさい」で有名な著者渡辺和子さんの言葉である。


実は私も過去に於いて人を100%信じたために相手の間違いを許せず、その自分の感情に疲れ果てた経験が多々あった。
相手に対して「こうして欲しかった」という欲が自分を苦しめたからだ。


よくよく考えると「人の間違いは許せない」ことは多い。ただ被害者だった自分が加害者となり、自分の間違った考えで相手に迷惑をかける時もある。


人間は完璧ではない、誰だって間違うこともある。だから聖書の言葉では「その人を許すことが、あなた自身を救うことになる。自分の罪が許される ように、人の罪をも許すこと」中国の古典では、寛恕(相手のあやまちを広い心でゆるすこと)という言葉で言い表わしている。
お互いがお互いを許し合えることが人として大切なことであろう。


さて、昨年ある新聞で、東電の若手社員が福島に行き、住民の方々に原発事故でのお詫びに行った出来ごとが書かれた記事に目を奪われた。
「会場では、住民からは非難と苦情の嵐でしたが、お詫びが終わり会場を後にする時、ある中年の婦人がやってきた。当然また厳しい苦情を言われると思って緊張したが・・・また一緒にがんばりましょう!と言われ、涙が溢れて止まらなかった」と締めくくってあった。その記事を見て、人の罪を許す「寛恕」がある日本人の素晴らしさを知った。
これからの我が人生「日本人であることの誇り」を意識して生きていきたい。


平成25年3月11日

 

型破り

今月歌舞伎界の重鎮であった市川団十郎が亡くなった。昨年12月歌舞伎界のスター中村勘三郎に続く、相次ぐ非報に、歌舞伎ファンは残念で仕方ないであろう。昨年の勘三郎追悼番組で、ある人が「勘三郎さんは型破りな人であった」としみじみと語っていた。そして言葉をこう続けた「型破りというのは基本となる型が出来あがっていて、その型を破ることが出来るのである。最初から型がないのに型破りは出来ない」というわけだ。

それを聞いていて「型破り」を辞書で引いてみた。すると「昔からのしきたりを破って違ったやり方をすること、ふつうのやり方と違うやり方」と書いてあった。「なるほどなあ~」と過去の自分の出来ごとに思いを巡らした。


IT企業である当社アイナスの人材育成では、最初に「人として」次に「社会人として」「技術者として」「リーダーとして」というようにピラミッド構造になっている。「人としての」の基本形成がしっかりなされていないと基礎構造がないビルと同じで、大きな地震でも来たらひとたまりもない。

当社のようなIT企業で「技術が出来ればそれがすべて」と勘違いしている技術者がいるとすれば大間違いである。一部であろうが、そのような技術者が「自分達の技術は凄い」と思いあがり小さな世界での「井の中の蛙」にならないことをただただ祈るのみである。


何故、井の中の蛙状態になるかをよくよく考えてみると「人間としての型が出来てない」からであろう。では何故、型が出来ていないかと言えば、基本形成するための反復訓練をしてこなかったからだと考えられる。


人間としての型を形成するためにはお手本となることを真似ることから始まる。長い年月を費やした日々の地味な努力の積み重ねにより、ようやく型が出来上がってくる。その結果、お手本を真似してきたことで型が出来あがり、そしていつの日か真似を超えたオリジナルの「自分らしさ」が生まれ出されていく。

「自分らしさ」とは、その人の個性であり、その個性も、人としての基本があってこそ、その土台の上に、はじめて個性が光り輝いていくものであろう。


「型破り」とは、今までになく、今までに捉われないことであるが、型という基本の前提があることを忘れてはならない。

企業活動でも経済社会でも、シュンペーター博士著「創造的破壊」ように、古いものを打破し、全く新しいものを創造していくような「型破り」が時として必要なのかもしれない。

平成25年2月22日

 

一人でもいい

私の好きな詩人、坂村真民「一人でもいい」ここにこの詩の一節がある。

「一人でもいい。わたしの詩を読んで生きる力を得てくださったら」


昨年ある方からメールを頂いた。実はその方とはまだ面識がない。

メールにはこう書かれてあった。

「面識はありませんが、ホームページを見て大変心動かされました。この経営哲学をもつ経営者が茨城県にいるということを一人でも多くの人に知らしめるのもいいことかと感じました」


頂いたメールは私の大きな励みとなり、自分達が今までやってきたことに自信を与えていただいた。その時、ふと頭をよぎったことがあった。弊社独自商品のことである。


「この商品の存在を一人でも多くの人に知っていただき、お客様のお役に立つことが出来たら何と嬉しいことか」

「もしお困りのお客様が居て、この商品を使って頂き、問題解決できたら何と幸せなことか」


そして実はこの商品の存在価値を市場に知らしめることが、私達の使命であることに気がついた。


最初の一人のお客様の喜びが、クチコミで、もう一人の次のお客様に伝わり、徐々にこの商品の評判が伝わっていく。最初の一滴が、やがて小川、大河となり大海に流れていく。

最初は「一人でもいい」誰かのお役に立てればから始まった。

平成25年2月4日

 

ポピュリズムとデモクラシー

早いもので昨年12月に行われた総選挙から1ヵ月が過ぎ去ろうとしている。新政権の今後の成果に期待したいものである。


さて、総選挙期間中にTV政治討論番組で「ポピュリズム」という言葉を何度か耳にした。そのポピュリズムの反対側に「デモクラシー」という言葉がある。

「ポピュリズム」がリーダーがみんなの言うことを聞く、大衆迎合に対し、「デモクラシー」はリーダーがみんなを説得することであるらしい。


これを会社に置き換えてみよう。会社のトップが社員の不平不満を聞くことは確かに大切であるが、それに加えトップが自分の意見を持ち社員を説得することも大切である。どちらが良いとか悪いとかの問題ではなく、大切なことはバランスの問題である。トップの立場で言えば、批評.非難ばかりする人は、実際に自分がやってみればいい「反対ばかり言うなら代替案を出せ!自分でやってみろ」と言いたくもなる。ただしトップも正しい羅針盤を持つことが大前提となるが。


デモクラシーをリーダーシップ(チームを良い方向へ導く)に置き換え、ポピュリズムをチームワーク(社員の個性.長所を引き出す)に置き換えて考えてみると本質が同じ様に見えてくる。両方のバランスが大切であろう。


福沢諭吉は「学問のすすめ」で「一身独立して、一国独立あり」個々が自分の役割を十分果たす。一個人の成長なくして、一国の独立はない」国民全員が学問しての「自立」と「成長」を促している。


危機の時にこそ、ポピュリズム(社員の意見を傾聴)デモクラシー(トップが社員の意見を傾聴した上で、自身の意見を発信)により自立した社員とリーダーが一体となり、立ち向かうことが求められる。
ちなみに弊社の教育理念は・自助(自立)・互助(協力)・扶助(信頼)である。

平成25年1月18日

 

温故知新

新しい年が始まった。今年もまたいろんなこと(困難な時、幸運な時)が待っていることであろう。また新たに気を引き締めて生きてゆきたい。

 

温故知新「故きを温ねて新しきを知る」という私の好きな言葉がある。

「過去に起こった出来事(歴史や思想)から学び、そこから新しい知職や道理を得て現在に活かす」まさに私達の人生そのものかも知れない。

困難な時こそ「原点に帰れ」と言わんばかりである。

 

「過去」から「未来」を結ぶ線上に「現在」がある。

過去に得た教訓から、未来(ビジョン)に線を引いていくと、そこには今、現在やるべきことが見えてくる。

過去は受け入れるもの。未来は創り出すもの。今(現在)は生きるもの。

 

世界が平和であり幸福であることを切に願う。

平成25年1月7日