社長コラム

三国志から学ぶ(その23)ブランド力

世界的コロナ感染拡大の中、57年振りに東京で開催されたオリンピック、パラリンピックが幕を閉じた。開催にあたり国内でも賛否両論があった。大会史上、この類を見ない歴史的事実(パンデミックの中での開催)は後世まで語り継がれていくことであろう。大会で印象に残った言葉がある。「失ったものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ」パラリンピックの父、ルードウィッヒ・グットマン博士の金言である。選手達は厳しい予選を勝ち抜いて大会に参加した。それ自体が凄いことでありブランドでもある。今回のコラムは三国志に於ける英雄たちが、いかにして人の心を惹きつけることができたかの人的ブランドについて考察していきたい。
(注:劉備玄徳=劉備・曹操孟徳=曹操・孫権仲謀=孫権・諸葛亮孔明=孔明・司馬懿仲達=仲達)


ブランドとは何か?それは「人が抱くイメージ」であり「何をもって覚えられたいか」の記憶であろう。その記憶を呼び起こす想起とは、他との差別化や違いからくる強みである。企業経営には3つのブランドがあると言われている。①商品ブランド(この商品でないとダメだ)②企業ブランド(企業の社会的イメージ)③人的ブランド(あの人についていきたい、この人でないとダメだと思われる人材)である。いずれにせよ第三者からの支持が肝要だ。
本題に入ろう。三国志演義からみた主役は劉備、悪役は曹操となる。それを第三局から静観しているクールなニヒリスト的役割が孫権の役どころだ。三国志はこのような強烈な個性の違う役者が揃うことで面白くなる。これを企業経営に例えると、皇帝=ブランド、信用。軍師=情報、戦略、企画。領地=新規開拓市場。戦い=マーケットシェア。兵糧=キャッシュフローであると思われる。


◆劉備ブランド3つの切り口
1. 使命「漢の末裔」 2. 仁義、慈愛「長坂(ちょうはん)の戦い」 3.人徳「三顧の礼
1.乱世の中「漢の末裔」として漢の再興を自分の使命と定め、後に蜀漢を建国した。その使命を全うしようとする高邁な精神が多くの人を惹きつけ、人心を掌握していった。
2.「長坂の戦い」荊州進出に目を向けた曹操は、荊州領主の劉表に対し大軍を進めた。その戦の最中に劉表は病に倒れ、家督争いの内部分裂が起きた。客将として荊州に駐屯していた劉備に孔明は「今が荊州を支配できる絶好の好機である」と進言した。だが劉備は生前劉表から受けた恩義のためその進言を却下した。その後に侵略してきた曹操軍と戦が勃発した。劉備軍はこの戦いで曹操軍から難をのがれようする数万の荊州の領民を付き従えた。そのため一日に十里しか進めなくなった。劉備軍は曹操軍からの猛追撃を受け窮地に追い込まれたが、防戦し領民を守り、趙雲、張飛の大活躍により劉備は江夏へと逃れた。ギリギリのひっ迫した状況の中で一歩間違えれば劉備の命はなかったであろう。「大業の成就を願うならば、人心とは仁義をもって掴むもの」。まさに劉備にしかできない領民への慈愛であった。
3.劉備の人徳は、孔明を軍師に迎えた、かの有名な「三顧の礼」で示される。これは曹操、孫権ではできない、劉備にしかできないことであった。そこにすべてを賭け、孔明の心を大切に扱い、誠実に接した。その劉備のもつ真心、人徳に孔明の心が動いた。運命的な出会いであった。劉備軍は天才軍師孔明を迎えて以来、その優れた軍略・企画構想によって政治力、軍事力を充実させ益州、荊州の山間部から中国全土の天下統一を図るまでの強国となった。これまでの点の思考(戦)から⇒線(軍略)⇒面の思考(企画)へと劇的な大変化を遂げた。比類ない劉備の使命、仁義、慈愛、人徳は多くの人の心を引き寄せた。


三国志演義からみた劉備(徳)、曹操(才)、孫権(柔)のブランド対比
劉備―主役、理想主義者、正統派、温厚、情の人、仁義、慈愛、人徳。
曹操―やり手の悪役、現実主義者、激情家、才人(兵法家・文人、詩人)敵地レッドクリフで短歌行(たんかこう)を詠んだ、情に溢れた人間曹操の側面が垣間見える。合理主義者(屯田制により大量の兵糧を蓄えた。これにより魏は最強国になった)、権威主義者で独裁者、冷徹者としての側面、清濁併せ吞むような豪放磊落と繊細さを併せ持つ掴みどころがない人物。この性格が災いとなり、野心家である仲達を軍師に召し抱えることで後に魏は滅びた。曹操は徳よりも才を好んだ。これが皮肉な結果となった。三人の英雄達の中で曹操ブランドの引き出しはダントツに多い。曹操ブランドは強いエネルギーで多くの人材を引き寄せ、そして彼の死と共にあえなく消え去った。天下布武を唱えた織田信長がふと目に浮かぶ。
孫権―第三局に存在する名脇役。創始者の劉備、曹操と違う点は、三代目であることだ。そのため、呉の建国に至るまでに尽力した父と兄から帝王学(失敗と成功の体験)を学ぶ時間があった。この経験が創始者の劉備、曹操とは一味違う孫権ブランドをつくった。その特徴は外交力と人材育成である。外交では、魯粛、諸葛瑾(孔明の兄)、人材育成では天才軍師周瑜亡き後に名軍師陸遜、名将呂蒙を育成した。優れた適材適所により文武の才を思う存分働かせることに大変巧みであった。その人物像はニヒリスト、醒めた目での冷静な判断分析力が特徴で、どこか理系的なマニアックでオタク的なイメージが伝わってくる。魏と蜀の中国統一のための消耗戦で疲弊したタイミングを見計らい、隙あらばワンチャンスを掴む戦略もあったであろう。何故なら三人の英雄達の中で孫権が一番若く、曹操、劉備亡き後の孫権に天下統一のチャンスがあったからだ。ただそれは孫権ではなく、曹操亡き後、仲達により実現された。これも歴史の流れであろうか。


劉備、曹操、孫権の共通点
三人の共通点は「あの人についていきたい、この人でないとだめだ」という人を惹きつける圧倒的な人的ブランドがあることだ。信念(ぶれない心)であり、使命(自分に与えられた重大な任務)・大志(我々はどうあるべきかの行動の源・目指すべきゴール)だ。それが旗印となる。それぞれの旗は違えども「Show the Flag!」旗を掲げ、その旗の下に多くの支持者が集まり、その旗が進む方向に支持者が従い、戦略と人の持つ強みを活かした組織づくりであった。そして三人に共通するのは強烈な精神的スタミナの持ち主である点だ。三人はとにかくしぶとい。何度もどん底(敗戦)に落ちてはまた這い上がってくる。この粘り強さ、最後まであきらめずに何度でも立ち向かう「闘争心」、自分の弱さに打ち克つ「克己心」には、ただただ驚嘆するばかりである。皇帝ブランドとは、ある意味に於いて、自分の信念で貫いた結果に対する他者からの評価である。リーダーは実績を重ねてフォロワー(支持者)がついてくる。その信用がないとブランドにはならない。最初からブランドありきではない。あの人についていきたいというフォロワーが増えてきて、初めてブランドとなる。
孔明が唱えた「天下三分の計」は、「あの人でないとダメだ。あの人についていきたい」という劉備、曹操、孫権の人的ブランドのすみ分け的な役割を果たした。劉備、曹操、孫権三人の英雄達の関係は敵味方を超えた尊敬の念があったのかもしれない。


時代を先取りした革命的ブランドをつくった時代の寵児たち
現代社会に目を向けると、社会的インパクトが強く革命的なブランドは、マイクロソフト創業者ビル・ゲイツ発案のWindows、そしてアップル創業者スティーブ・ジョブズ発案のiPhone、「1000曲をポケットに」で有名なiPodだ。これらは、いずれもこれまでの社会を激変させたブランドだ。これらは私達の生活になくてはならない社会インフラ、パラダイムシフト(社会全体の価値観の構造転換)的な役割を果たした。ジョブズの名言「Think Different」はブランドとは何かを見事に言い表している。またブランドと言えば、真っ先に思い起こさせるのは、フランスのファッションデザイナーであるココ・シャネルだ。その生き方、時代の変化を先取りした先見力とその奇抜さに強く惹かれる。彼女の有名な名言がある。「とことんハマろう」・「流行は変化していくもの。だけどスタイルは永遠」だ。彼女は誰にもまねのできないやり方で、自分だけのスタイルに変えたばかりでなく時代をも変えた。三人に共通するのは、時代の変化を先取りした先見力とその奇抜さだ。


大切なことはブランドとは信用(支持者がいることが大前提)そのものであるということである。「ブランド=信用」にならないと意味がないのである。いくら自分がいいねと思っても、第三者も認めてくれないとブランドにはならない。ブランドとは「自分には、自分にしかできないことがある」と考え抜いたユニークなアイデア、他者との違いについてのこだわり、独自スタイル。それを自分のブランドとして旗揚げさせようとするならば、支持者から見てシンプルで、わかりやすく、共感できるものであるとよい。他方ブランドとは万人受けを狙うものではなく、かつ相手に媚びないことが何よりも肝要だ。これにより自分にしかできない唯一無二のブランドが確立される。


最後に、ブランドについて自分からの視点、第三者からの視点の双方を結びつける名言がある。「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず 」(孫子の兵法)。
最初からブランドありきではない。支持者がいて初めてブランドとなることを、三国志の劉備、曹操、孫権が教えてくれた。


2021年9月30日


 

三国志から学ぶ(その22)運をつかむには

5月に入り若葉の時を迎えた。コロナのワクチン接種も始まった。人は希望や未来があるから運命に従い、逆境を耐えることができる。コロナもいつかは終わり、時は季節と同じように流れていく。それが自然の摂理である。時を待つことにより、機運(時のめぐりあわせ・物事をなす時期)が熟し、視界が開けていく。
今回のコラムでは、三国志の英雄たちが、人との出会い、窮地を乗り越え、どうやって運をつかんでいったかについて考察していきたい。
 (注:劉備玄徳=劉備・曹操孟徳=曹操・孫権仲謀=孫権・諸葛亮孔明=孔明・司馬懿仲達=仲達)


運とは何かについて、以前米国で科学的に実証できないものか試みられたが、最終的には解明できなかったという話を聞いた記憶がある。それほど運とは不可解なものであることが判る。成功者に「成功の秘訣は何か」と問うと、必ずと言っていいほど「運が良かった、人に恵まれた」ことを一番に挙げている。では成功要因の中で運が占める割合は、どの位であろうか。一説によると運が4割を占めると言われている。その他6割の要因は、才能1割、努力2割、残りの3割は志(目標)・気(エネルギー)・決断実行力・忍耐力・考え方(ピンチをチャンスと捉える) ではないだろうか。では、なぜ運が成功要因の4割も占めるのか。そもそも運とは何か。その運はどこから来るのか。その運をつかむにはどうしたらいいのか。三国志を通して紐解いていきたい。


運命に対して宿命という言葉がある。宿命とは自分がこの世に生を得る前から、既に定められたものである。この時代に、この国で、この両親から命を授かったことは自分自身では変えられないのである。これに対し、運命は変わるものである。そのように考えてみると、三人の英雄が同じ時代に、同じ中国で、生まれたのは宿命である。もし、そうでなかったとしたら、彼らは三国志の歴史に名を刻むことはなかったであろう。
三人は宿命のライバルとして戦った。どんな時代にもライバルは存在する。その中でトップに立てるのは、ただ一人だけである。仮にこの時代に彼らの中から一人の英雄だけが中国皇帝になったとすれば、その後の歴史は変わっていた。このことは曹操、劉備、孔明亡き後に、最後まで生き残った仲達が西晋の礎を築いて、後に中国統一を果たしたことで証明した。仲達は時の流れを読み切り、機運が熟した絶好のタイミング(天の時)を見事に捉えて天下を手中に収めた。領地、地形、気候風土、個性、考え方、軍師、戦略も異なる三人の英雄たちが、どうやって運をつかんでいったのか大変興味深い。


◆劉備玄徳
劉備の運をつかんだ最も大きな要因は、人材の招致、人心掌握である。衰退した漢の再興を果たすことで乱れた国内の秩序を取り戻す志を掲げ、「桃園の誓い」で張飛、関羽と義兄弟の契りを交わした。「三顧の礼」では天才軍師孔明を迎えることができた。まさに運命の出会いであった。もし彼らに出会っていなければ、劉備のその後の人生はまったく違ったものになっていたであろう。劉備の大業成就は仁義をもって人心をつかむものという考え方であった。人の心をつかむことは、運をつかむことに通じることなのかもしれない。三国の中で蜀は一番小国であったが、その中でも一番仁義を重んじたのが劉備であった。
また小さな善行を積み重ねた積徳の人でもあった。劉備の人間的魅力は運を引き寄せた。


◆曹操孟徳
曹操は実力的にみて三人の英雄たちの中で天下統一に一番近い人物であった。ある意味、同時代に劉備、孫権が存在したことは不運でもあった。赤壁の戦いではあと一押しで勝利を手中に収めていたところ、孫権、劉備連合軍の火攻めの策略により大敗を喫し敗走した。その追撃を任されたのが関羽であった。関羽は敗走する曹操に追いついた。だが、かつて曹操から受けた恩義を忘れていない関羽は曹操を逃がした。三国志での有名な名場面の一つであり、何とも言えない人間味溢れる味わい深い話である。人間は情で動く。追走軍の指揮官が関羽であって良かった。もしそうでなかったとしたら三国志はここで終わっていた。勝利目前の絶頂期から一転、絶体絶命の窮地に立たされ、死を覚悟した曹操の心中を察するに余りある。曹操は天に命を委ね、そして天は曹操を生かした。まさに天運である。天は「人生一寸先は闇ばかり」ではなく、その先に光もあることも教えてくれた。

赤壁の戦い後、曹操敗戦の弁がここにある。「此度は負けを味合う時が、来るべきして来たということだ。失敗は良いことである。失敗がいつかは我々を勝利に導き、天下を取る方法を教えてくれる」この言葉どおり曹操は、現実と向き合った。イライラせず、今打つべき手を打ち、後はなるようにしかならないと腹を括った。その後曹操が再起を図れたのは、これらの言霊(マイナスをプラスに変える言葉)に表れている。プラス言葉は運を引き寄せる。言葉は言霊となり自分に返ってくるからである。曹操が窮地の時に「もうダメだ、これで終わりである」とマイナス言葉を口に出していたならどうなったことであろうか。劉備が理想主義者であるとするなら、曹操は現実主義者であることは疑う余地もない。違う個性がぶつかり合う。だから三国志は面白い。


◆孫権仲謀
「その長ずる所を貴び、その短なる所を忘る」孫権を評した三国志故事である。
孫権は三人の英雄たちの中では地味な存在であったが、人材育成、内政外交に力を注いだことで有名である。内政外交に才のある魯粛、諸葛瑾(孔明の兄)、軍略の奇才で大都督の周瑜など、個々の強みを活かした適材適所で、部下との絆を深め国力を充実させた。最大のピンチは曹操軍が大軍を率いて侵略してきた赤壁の戦いであろう。孫権軍は兵力では曹操軍に圧倒的に劣っていたが孫権、劉備連合軍の火攻めの策略により大勝利を収めた。
その背景には戦場が長江中流沿いにあり、孫権軍が強力な水軍による戦を得意としたのに対し、曹操軍が陸戦は強いが水軍戦には不慣れであったことも幸いした。防御戦では地の利という運は味方にしたが、攻撃戦で北方(華北・中原)の魏を制し中国統一を図るには、その中間に領土(益州・荊州)を所有する蜀が立ちはだかり、荊州争奪戦に明け暮れ国力を消耗しすぎた。地政学的にみて、赤壁の戦いのような防御戦では地の利が幸いだったが、蜀より北方の魏までを制覇する中国統一には逆に災いとなった。もし孫権の領地と魏の北方(華北・中原)領地がそっくり入れ替わっていたとすれば歴史はどう変わっていただろうか。それは知る由もない。孫権は周瑜の亡き後も、名軍師陸遜、名将呂蒙(関羽を討ち取った将軍)など、優れた人材を排出した。地の利・優れた内政外交力・人材育成力により、長らく呉の安泰を保ったことは孫権がもたらした最大の泰運(安らかになる気運)であった。


三人の英雄たちに共通した要素は、統率力・決断実行力・忍耐力・ピンチをチャンスと捉える力・自分のエネルギーを引き出す力・情報収集力・自己肯定感(自分の可能性を信じる力)・洞察力である。そこに加わるのが「運」、すなわち天の時(実行のタイミング)・地の利(立地条件)・人の和(内部の団結)・徳・言霊である。その中で最も重要な要素は「人の和」であろう。逆に運を遠ざける要素は、怒りの感情だ。怒りの感情で心を取り乱せば、迷いが生じ、判断にも影響を及ぼす。怒りは己の敵である。とらわれすぎない、うろたえない、傲慢にならない、自惚れない、強欲にならない、思い込みを消す(事実確認)ことが大切である。夜更けの静寂の中で、三人の英雄たちが一人静かに思いにふける姿が目に浮かぶようだ。


さて運はどこからやってくるのか。
一般的には運は「運よく、いい時に、いい場所で、いい人と出会い、自分を支えてくれた」「たまたま、偶然にも、思いがけず」という計算外のようなスピリチュアル的な言葉で表現される。良くも悪くも予想外にやってくる不思議な出来事、運命的なもの、何か通じ合うもの、何かを感じ合うようなものである。
ちなみに筆者が考える「運」をつかむ要因は、①感性を磨く(インスピレーション)②ポジティブな言葉を使う(言霊)③物事の流れを読む④心を清める⑤ゴールイメージを可視化する⑥集中力を高める⑦毎日を感謝の念で過ごす⑧徳を積む⑨精神的なスタミナを養う⑩毎日を一生懸命に生きることを大切にするである。人生良い事と悪い事が交互にやってくる。まさに「禍福は糾える縄の如し」である。現実から逃げない現実受容が、運をつかむための大前提となる。人生とは先々何が起こるか判らない筋書きのないドラマである。
天のみぞ知る。この先の自分に何が待っているかを楽しみに思うしかない。


私事になるが筆者のGWは本棚と書類の整理(断捨離)に明け暮れた。物の整理整頓ができていないと感性が鈍り、運が逃げていくと言う家内の一言が効いた。物の整理は、心の整理、頭の整理へとつながる。整理された心の空間(隙間)に、新たな気(エネルギー)と運が入ってきた。つねに感性を磨き、心(精神)を清めておくことで運を呼び込む。
これも凡人である私なりの運をつかむ方法である。


海の向こうではエンゼルス大谷翔平の快進撃が続いている。現地メディアでは投手、打者の二刀流の和製ベーブルースとして脚光を浴びている。まさにスーパーマン的な大活躍だ。
ここに彼の大変興味深い逸話がある。「世界一になるには運が必要だ」とプロに入ってからもグラウンドやベンチで、誰かが捨てたゴミがあれば必ず拾っていたそうだ。「これは、ゴミを拾っているんじゃないんです。運を拾っているんです。だから楽しくてしようがないんです」と言っていたそうだ。劉備と同じく小さな善行の積み重ねの先に幸運が待っているかのような凄い話である。この先の大谷選手の活躍が楽しみだ。


次回に続く。


2021年5月25日