社長コラム

高倉健という男の生き方

高倉健が亡くなった。日本人の心の故郷のような国民的大スターであった。日本中のあちこちで何ともいえない寂しさに包まれた人が多くいたことだろう。
大スターでありながら、いつも庶民感覚で謙虚に誠実に人に接し、温かくそして孤高であり、畏怖の人でもあった。背中で語れる人でもあった。
何故健さんは、これだけ多くの人の心を掴むことができたのであろうか?


日本は今、家族主義から核家族へ、そして高齢化社会へと変化している。
このような時代に生きる我々にとって何が本当の幸せなのか?金銭、物品のような物質的なものでない、日本人が本来持ち合せてきた精神的なもの(心の拠り所、人のもつ温もり)人としての生き方が問われている。


インタビューの中で「どうすれば人は幸せになれるでしょうか?」との問いに健さんは「よい人と接することで人は幸せになれる」と述べていた。
では、「よい人とは」・・・・


健さんの行動から「相手を想う心、感謝の気持ち、謙虚」などが伝わってくる。
誰にでもそれらは持ち合わせているが、健さんの凄さは、人々から受けたエールを、どんな人にも分け隔てなく、手紙などで具体的に感謝の気持ちを形にして、一度だけの交流ではなく継続的に実行していたことだ。
大スターが中々できることではない。相手との「気持ちのキャッチボール」の出来る人であったのだろう。
健さんとのキャッチボールの中で、自然と「健さんに恥じぬよう自分も頑張ろう」と人々は勇気づけられた。よい人と付き合うというのはそういうことではないだろうか?
一方的に受ける愛だけでは、人は幸せになれないのかもしれない。なぜなら愛が不足した時に、人からの施しが当たり前になり、不満につながる。
自分が相手に施すことができるという心が幸せにつながるのではないだろうか?


高倉健という男の生き方を考えさせられるニュースであった。
心からご冥福を祈る。


平成26年11月26日


 

愛すべきキャラとは・・・トップに立つ者の器とは

愛すべきキャラで最初に思いつく人物は何と言っても伊達政宗である。
戦国末期の武将伊達政宗は小田原城北条攻めに遅参し、豊臣秀吉の前に白装束で現れた。
子供の愛嬌の部分まで計算し、死を免れたとすれば、政宗は子供の心を持ち合せた、その一方、人の心を知る優れた戦略家であり、また実に賢い愛すべきキャラである。


トップに立つ創業社長は個性の強い人が多いと言われている。
個性の強いトップの、子供の部分だけをみていると欠点しかみえないが、逆に大人の理性の目でその全体をみると、長所がみえてくることもある。
何とも不思議なものだ。


人間誰しも長所、短所・大人・子供の部分を背中あわせに持ち合わせているが、子供の目で子供をみた時に「子供は可愛い」とは思えるだろうか。
子供を大人の目でみるから、子供の邪気のない(無邪気)ピュア(純粋)な心がみえてくるような気がする。


子供は状況をみて相手に合わせる術を知らないので、良いも悪いもすべてをさらけ出す。大変判かりやすい。
だから人は、その人の持つ子供の部分(愛嬌)を感じ、安心するのである。
仮にトップが人より大変秀でた才能(長所)があるとすれば、その人のちょっとした欠点に人は安心し親しみを覚える。
欠点が長所となり愛嬌になるのである。


突出した才能に比べ、どうしてこんなことが出来ないのか?と思える時がある。
この差(ギャップ)を自然に人前に出すことで愛嬌となり、その差が人間的な幅となる。
その幅が広ければ広いほど、人がその中に入ってくるのではないだろうか?
それが人間の持つ幅の広さであり、器なのかもしれない。
少々の欠点は人間的に親しまれるのではないか。大切なことは、その人が人間的であるか?要は我がままを言わないことである。


笑っている赤ちゃんを見れば、心が和むし、何となくかまいたくなるものだ。
愛すべきキャラとは、素直で、純心な無邪気な人のことをいうのであろう。
いつも赤ちゃんのように、素の自分で勝負したいものである。
その前提は、伊達政宗のように、自分の中にあるやんちゃな子供の部分(愛嬌)を、自分の中にある客観的な大人の目で観ることが出来るかによるが・・・


平成26年10月20日


 

余裕の有る者が勝利する

会社経営をしていると、つくづく余裕(お金・時間・気持ち)の大切さを思い知る。
余裕のない時は仕事に支配される。


戦国史に残る織田信長の代表的な2つの合戦がある。
奇襲攻撃が功を奏した「桶狭間の戦い」と近代戦法を用いた「長篠の戦」である。


「桶狭間の戦い」は、敵方今川軍の兵力2万5千と比べ、織田軍は2千、約10倍以上の敵に挑む兵力的には余裕のない戦いであったが、先手、先手と動くことで時間と気持ちの余裕を作り出し、見事奇襲に成功した代表的な戦である。


これに対し、「長篠の戦」は用意周到、万全の布陣を敷き、敵軍武田軍の約2.5倍の兵員で、三重の馬防柵を築き、3千挺の鉄砲を配備して武田軍より先に戦場に赴き、敵軍を待ち誘導して勝利した。
「桶狭間の戦い」とは打って変わり、万全な兵力、加えて時間、気持ちの余裕を共に持ち合わせた戦であった。
織田信長の「桶狭間の戦い」以降の戦で奇襲と言われるものは見当たらない。
余裕の持つ大切さを知ったからであろう。


実は会社経営の余裕も本質的には全く同じである。草創期には資金的余裕がない。
年数を積み重ねて資金的余裕を生み出し、初めて新規事業に投資出来る。
最初から資金を有すれば、時間的余裕が生まれる。まさに余裕が余裕を生むのである。


プロジェクトも同様である。最初に作る計画の中から時間的余裕(バッファ)を取除く。
その理由はパーキンソンの法則では「十分な時間があったとしても人はそれをすべて使い切る」からである。
バッファを取除き、時間がないなら工夫して限られた時間を使い、使わず残った時間が余裕となるいう考え方だ。


つねに余裕を持つ大切さは、歴史からも学べ、また経営者にとっても欠くことのできないものである。
「余裕の有る者が勝利する」この言葉、今一度刻んでおこう。


平成26年9月18日


 

北風と太陽

夏の暑い太陽が燦々と照り続き、毎日の体調管理が大変だ。
イソップ童話の中に「北風と太陽」がある。
どちらが旅人の着るマントを脱がせることが出来るかを競い合い、北風は強い突風を吹かせ、太陽は暑さで旅人のマントを脱がそうとする話しである。
結果太陽の方が、旅人のマントを脱がせることが出来た。


昨年9月コラムで「人を動かすものとは」を書き記した。
人を動かすものは、利害=財力であり、権力と権威であり、愛であり、そして最後は理念であると締め括った。
その権力と権威の中で、仮に北風を権力、太陽を権威とすればここでは、人は権力だけでは動かないものがあることを示している。


では、権力と権威の違いは何か?権力はその人の組織における権限、また社会的な地位や財力等、いわゆる力そのものである。
他方、権威は力だけでないその人の持つ威厳、趣、徳(人格)から来る人望、下からの支持がある揺るぎないものである。
ただ実際には必ずしも徳(人格)があるから権威があるとは限らない。
中には人望も徳もなく、生まれ持った肩書(to be)だけの限りなく権力者に近い権威者も存在する。


今話題の大河ドラマ「軍師官兵衛」では、織田信長は権力を得、最後に欲しかったものは、絶対的な権威であり、豊臣秀吉も同じであったろう。
天才軍師・黒田官兵衛はこの二人から、権力、権威の違いを読みとったに違いない。


「北風と太陽」での北風(権力)は力の限界を知り、太陽(権威)は威厳を保ち、人との信頼(やさしさ)の大切さを尊んだ。


権力は上からの権限、利害(損得)のみで、権威は威厳、人格、人望(人心掌握)下からの支持で人を動かすものである。
ただ、権威はあっても、方向性(理念)を誤まると、論外である。


「北風と太陽」から、リーダーとはどうあるべきかを、改めて考えてみたいものである。


平成26年8月18日


 

ハート(情緒)・マインド(意志)・スピリット(精神)・ソウル(魂)

サッカーワールドカップ、ブラジル大会は、ドイツ優勝で幕を閉じた。
両チーム共に、すべてを出し切り、悔いなき戦いであったことだろう。
それにしてもこの決戦は凄かった。観る者を熱くさせた、魂がぶつかり合うような戦いであった。


さて、本大会を通じて、新聞の記事で「魂」という言葉をよく目にした。
何故、サッカーの試合には、「魂」という言葉が使われるのであろうか?
生きるか、死ぬかの国の威信を賭けた戦いのイメージが強いからだろうか?


その魂はどこから来るものなのか?最初の入口は、何かを感じる心・ハート=(情緒)であろう。
何故なら人間には誰しもハート(情緒)が備わっており、何かを感じて我々人間は生きている。
そしてそれが自分がこうなりたいというマインド(意志)をもつことで、それが凝縮されて、スピリット(精神)軸が完成されるのではないだろうか?


例えば、サッカー好きな子供の「好き」をハート(情緒)、次に「世界的なプロのサッカー選手に「なりたい」をマインド(意志)さらに、その中でも一流の選手の持つ強固な闘争心を「スピリット」 そして、スピリットが時間かけ擦り込まれた状態のことをソウル(魂)とした時に、精神文化的な土壌が 完成されるのではないだろうか?


ただ、人の持つ個々の想いの強さは個人差があり、誰しもソウル(魂)にまで進化していくとは限らない。
果たして、今の自分は、ハート(情緒)に居るのか?マインド(意志)まで進んだのか?
さらに進化したスピリット(精神)に居るのか?根幹にあるソウル(魂)までいったのだろうか?


魂とはその人の心に宿る、信じて疑うことのない、ぶれない心の核(信仰)であり、その連続性の中で、いつしか精神文化が養われ、培われていく。
ソウル(魂)があれば、多くの困難は乗り越えられるに違いない。


サッカーワールドカップの歴史は、長年培われた多くのサッカー選手の想いを集積した、文化であり、魂の歴史なのかもしれない。


平成26年7月25日


 

点の思考、線の思考、面の思考

サッカーワールドカップ、ブラジル大会が開幕した。初戦で我国日本チームはまさか?の残念な結果になってしまった。


サッカーのTV観戦で興味深いのは、ボールの動き(点)、それを追う選手の動き(線)である。
状況に応じて選手がどのように動くのか?その動きに対して相手選手がどう動くか?将棋でいうところの、現在を起点に一手先、二手先を読むという事と同じであろう。
仮に、現在を起点として考えることを「点の思考」、一手先を読むことを「線の思考」、そして二手先のことを読むことが「面の思考」となる。


ここで故スティーブ・ジョブスの言葉を引用してみると・・・
「点とは構成要素あるいは思考であり、点と点をつなぐ線は、つながりもしくは関連性である。
線と線は結びつき、より大きな断片を形成し、これらの断片は結合して、あるまとまった一つの思考を形成する。
各要素、そのつながり、そしてこれらを結合させる精神過程は一体的に作用するため、ひとつの認知的なまとまりであるかのように見える、これこそ、人がアイデアや概念をひらめくときに起きていることなのである」


まさにサッカーはアイデアやひらめきを点と点をつないで絵を描くようなものかも知れない。


私達も経験や知識を自分の中の引き出しにきちんとしまい、時によって瞬時に適切な意見や知識を引き出して、アイディアに変換したいものだ。
それぞれのアイディアが集まれば、それが面となって創造性につながるのではないだろうか。


サッカーも企業組織も点⇒線⇒面の思考があり、本質的には同じであろう。
これからの我が日本チームの巻き返しに、大いに期待したいものである。
頑張れニッポン!


平成26年6月18日


 

木を見て森も見る ー 自分は半径何メートルの人間なのか?

先日久しぶりに映画(相棒、水谷豊主演)を観た。


その中での一コマ「馬は大変臆病な動物で、また350度の視野をもつそうです」という右京警部の台詞が興味深かった。


人間はといえば視野はせいぜい200度位だそうだ。
この頃はパソコンやスマホに向かう時間が増え、「考え方」の視野が狭くなっていないだろうか。
視野を長さで考えた時に、自分だけのことしか考えられない人を「半径ゼロメートルの人間」としよう。
自分と家族のことだけの人を「半径3メートルの人間」、会社のことまで考えられる人間をαメートル、社会までを考えられる人間をβメートルとする。
自分はどれほどの視野をもつ人間なのか(=大局観)を考えてみたい。


仕事におきかえたときに、新人の時は自分の与えられた仕事のことだけ考えればよかった。
しかし経験とともに判断を要する場面や知識・アイディアが必要な場面がでてくる。
正しい判断や知識・アイディアはその人の大局観に比例する。
木(=部分最適)ばかりを見ている人には、森(=全体最適)のことはわからない。
逆に森ばかりを気にしていても、個々の木の細かな状態は把握できない。


まさに「木をみて森も見る」であろう。全体を見ながら、同時に足元という部分も見る。そのバランスが問われるところだ。
6月のサッカーワールドカップ開幕も近づいてきた。自分という足元(木)の確認、と同時に自チームと相手チームの動き(森)の両方を見ながらの熱戦が期待される。


時に自分は「半径何メートルの人間」なのかを考えてみるのもよいのではないだろうか。


平成26年5月15日


 

日本人と桜-桜咲き、桜散る

4月は桜の季節である。筑波は葉桜になりつつあるが、東北地方は桜が咲き始めた頃であろう。
春の風に誘われ、桜並木を歩いていると桜の花びらが、ひらりひらりと舞い落ちてゆく様を見かける。
何とも言えぬ風情があり、美しく、また儚さをも感じさせる趣がある光景である。


しかしながら待ちわびた春告に数日で別れるのはあまりに短い。
一日でも長く愛でたいという人の気持ちとは裏腹に、桜は何かを急ぐように散っていくのである。
桜にとってみれば花を咲かせるというのは子孫を残すためであって、春の強い風にのって少しでも遠くへ種子を飛ばしたいという本能があるのではないか。
ひとの気持とさくらの思惑はどうやら同じではないようだ。自分と相手、それがたとえ相手が人間でなくても相互理解できるようになりたいものだ。


桜は、暑い夏を乗り越え、厳しい冬に栄養を貯え、そして春の季節に咲く。
苦難を自己主張することもなく、咲くべくして咲いている。
人間も苦境を乗り越え、困難に立ち向かいながら生きていく姿は尊いし美しい。
さまざまな景色の移ろいを心にそっとしまって凛と生きたい。


さまざまの事思い出す桜かな(松尾芭蕉)


平成26年4月11日

 

「時間」という名の経営資源

時々刻々と、時は変化しながら、年、月、週、日、時間、分、秒と、現在から過去へと流れてゆく。まさに「時代は変わる」である。


日本経済は、かつての「モノづくり」中心から「サービスの時代」へと移行してきた。
「モノづくり中心」の時代の経営資源は、「人・モノ・金」と言われてきたが、情報化社会に入り、「情報」そして、その加速化により、「時間」が新たに加わり、経営資源は、「人・モノ・金・情報・時間」へと移り変わったといえよう。


一例を挙げると製造業は「いつから、いつまでに何をする」という工程がパターン化されている。
他方、従来の知識労働者である弁護士・会計士などに加え、昨今の情報化社会に於けるコンサルタント、システムエンジニアを含むサービス業は、顧客の要望に応じて変化し、その工程がパターン化されていない。
パターン化されていないから、生産性が判りづらく不透明である。これらのサービスの時代では、サービスの生産性こそが大きな課題なのかもしれない。


情報化(サービス)社会では、情報という経営資源が最重要となり、その情報量が増大(膨張)することで、膨大な情報の整理分析に時間を多く費やされる。
これにより時間の量から時間の質が求められる。情報量の膨張に比例して、時間も膨張することになる。


経営資源に於いて、時間だけは平等である。その時間という資源をどう有効に使うか、時間の質を向上させるために自社の強みに時間を集中させる「選択と集中」の仕組みづくり(システム)を企業がどう構築するか、まさに勝機を呼び込むキーワードは「時は金なり」である。
これからの企業の生命線になる課題である。


その結果として、時間(タイムマネジメント=人の時間管理)が大切になってくる。
人と時間の活かし方を間違うと企業は衰退していく。何故か?タイムロス(無駄な時間)が生じるからだ。そのタイムロス(無駄な時間)を知るためには、会計伝票と同じように、時間を何にどれだけ使ったかを記録する必要がある。
これによりタイムロスを取り除くとが 可能となり、結果的に「時間の質」が向上するからだ。


情報化時代では「情報を制するものが市場を制する」と言われている。
これに加え情報化時代が成熟していくこれからの時代は「時間を制するものが市場を制する」ということになるであろう。


平成26年3月12日

 

ソチ五輪開催 ー セルフモチベーションとセルフマネジメント

ソチ五輪がまもなく開催される。4年に一度に行われるオリンピックで自分の普段の力を出し切ることは、並み大抵のことではないだろう。

もちろん時の運もある。技能、コンディションに加え、当然緊張感やプレッシャーもあるだろう。

失敗したらどうしようという不安もあるだろう。


選手の立場で考えると、外圧(プレッシャーと周囲の期待に応えようとする)と、内圧(自分の力を信じられるか?自分との戦いに克つ、克己心)からくる両方のプレッシャーを受け、その期待の大きさに押しつぶされそうになり、平常心を保つのは大変なものがある。


そうした中で個々の選手は、モチベーションとマネジメントが合わさったモチベーション・マネジメントが必要なのではないか。

モチベーションには大きく2つある。1つは他律的(人から評価されたい=相手が基準)なものであり、評価されないとモチベーションが低下する。もう1つは自律的(自分が自分を認める=自分が基準)なモチベーションであり、自分がやるべきことをやる主体的な行動でモチベーションを高めるものである。
実は自分のために頑張ることは、応援してくれる人のために頑張ることであり、応援してくれる人のために頑張ることは、自分のために頑張ることである。切り口が違うだけで本質的な意味は同じである。


オリンピックで勝利するためには、自分を徹底して磨き、自分がブランド(断トツ力)にならなくてはならない。
また自分という存在を応援してくれる人(観客)から認められるための努力を最大化して、その存在価値を増していく。

そして自分も自分の努力を認めることで、自他共に認められる存在となるのではないか?


勝利を目指す選手達に自分のスタイルを貫くことで自分らしさを発揮して欲しい。

自分のベストを尽くすセルフモチベーション(自律)、それをコントロールするセルフマネジメント(自助)それを楽しむ瞬間こそ幸福を感じる時であろう。

これは五輪選手のみならず、今受験真っ只中の受験生、また社会人にも同じことが言えるのではないだろうか?ソチ五輪での選手の活躍が楽しみだ。ガンバレ!五輪選手!


平成25年2月6日

 

「ななつ星 in 九州」からみた「モノづくり」から「サービス」への道

明けましておめでとうございます。


かつて、日本はモノづくり中心であったが、今やモノづくりは新興国に移行し、今後産業構造は、情報産業/サービスへと比重を高め、富の源泉はモノではなく、コミュニケーションになると言われている。


まさに、これからの企業経営は、サービス力が生命線であり、その根幹には、Face to Face、いわゆる人と人をつなぐアナログ的なコミュニケーションがあることは疑いの余地もない。


ここで言うコミュニケーションとは、人と人をつなぐ良質なアナログ的人間関係(共感)を指し、デジタル的情報産業が進化していくほどに、その重要性が増していくと思われる。


そして、人と人とのコミュニケーションが上手くいくか否かは、感情共有(共感)が約70%をも占めていると言われているが、まったくそのとおりである。


「モノづくり」が、目に見えるものを製造し消費者への販売活動をしていくのに対し、「サービス」は、目に見えない人の心を満足させるものである。


人に対する思いやり、気配り、そして流行語大賞にも選ばれた「おもてなし」は、日本人特有の細やさにあり、日本のサービスは世界的にも最も質が高いと言われている。日本特有の旅館に代表される「おもてなしの文化」は他に類をみない。


日本は元々強いモノづくりに加え、サービスの質が強化されることで上質のモノづくり(ハード)+サービス(ソフト)=強力なシステム(仕組み)が完成する。


一例を挙げると、JR九州の豪華列車「ななつ星」の、しつらえを仮にハードとすると、出される料理、心の込もった接客サービス(おもてなし)はソフトであり、上質のハード(しつらえ)とソフト(料理とサービス)が合わさり、お客様が心から満足いただけるシステムが完成するのである。


目に見えるモノづくりは、新興国から真似されるが、目に見えないサービスは真似されることはない。
これまで日本で培われてきた上質のサービスは、いずれかは新興国でも求められるようになる。今後日本の強みである上質のサービス文化が、サービス輸出産業として、発展していくことが予想 される。


その富の源泉となるサービスの本質は何か? と問われれば、人と人の心をつなぐコミュニケーションであり、そのコミュニケーションは心を込めた人への気配り、感謝、誠実で細やかな「おもてなし」に代表される日本人の心から形つくられる。


日本のハード(モノ)+ソフト(サービス)の最高峰である「ななつ星」に一度は乗ってみたいものである。


平成26年1月6日