行不由径(こうふゆけい)

道が渋滞している時に小道に迂回し、結果的には正道を通った方が目的地への到着が早かった
などという経験は皆さんはないだろうか?


論語に 「行不由径」 こうふゆけい(ゆくに小道によらず)という一節がある。
「安易な近道を行かず正道を歩き、公明正大であること、姑息な手段をとらず、常に正々堂々と事を行うこと」の意で、「径」はこみち、ここでは近道のことを指している。
味わい深く、身に染みる、重みある言葉である。


最近の世の中の風潮として、時の流れが早いせいか、すぐに流行るものは消えるのも早いように感じる。
長い年月を費やしてつくられたものは、基礎が出来た分だけ時代にしっかりと根を張り、簡単には消えない。
目先の時間、利益ばかりを追い求めてばかりいると、本質的な大切なものを失っていくのではないだろうか?


高いビル(志、目標)を建設しようとすれば基礎工事に多くの時間をかける。基礎がしっかりと出来上がれば、建物の建設は急ピッチで進められ工期は早まる。基準を満たさず、基礎がしっかり出来ないと先般ニュースで報じられた通り、杭が不足した欠陥工事となり建物が傾いてしまう事態となる。
目標成果に早く辿り着くことも大切であるが、同時にそこに至るまでのプロセス(取り組み姿勢)も大切である。


そのプロセスは人生という道に例えることができる。人生どう生きるべきか?その取り組み姿勢は人それぞれだ。「自分は何のために、ここに存在し、何を成そうとしているのか?」名声や財が欲しいのか?
世間や人から認められたいためか?或いは、世のため、人のために役に立てる存在になりたいためか?
己の心にノックして問うてみる必要があるかもしれない。


生き方は個々それぞれであるが、効率・お金ばかりを考えた生き方、世の中の流れかりを追い求めた生き方、果たしてそれだけで良いのであろうか?
それだけでは世の中の風潮に流されてしまう危険性があり、そうならないためにも自分の人生という流れは自身がコントロールする必要がある。
そこに己のプライドを持たなければならない。
真のプライドとは、己が信じ譲れないものである。それにより自身の志、気高い(自主・独立)の精神性が培われ、自分が自分自身になれるのではないだろうか。


人間国宝、故14代目 酒井田 柿右衛門がTV紹介で弟子に話した言葉「陶芸家の人は器用な人より、不器用な人の方が向いている。
器用な人は基礎技術を習得するのも早いが、器用さ故に習得したものを忘れてしまうのも早い。
逆に不器用な人は習得するのに長い時間がかかるが、一度習得したものを忘れることはない」
優れた良いものは基礎に長い時間をかけてつくり上げるものであることを示した人間国宝ならではの重みのある言葉である。


結果を早く求め器用に最短の近道を歩んだ人よりも、長い時間をかけて長い道を歩んだ人の方が、さまざまな経験を積んで最後には遠い所まで行くことが出来るということであろう。


徳川家康は織田信長、豊臣秀吉と二人の天下取りに仕えた後、1603年に江戸幕府を開いた。
二人の天下取りに至るまでの成功事例、失敗事例を学び、その教訓を活かし、結果天下を取り265年間の長期幕藩体制の礎を築いた。
「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」家康の行不由径の言葉である。


亡き義母が残した筆書、徳川家康の名言を思い出した。そこにこう書かれてある。
「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。急ぐべからず・・・」人生はまさに「急がば回れ」である。


人生いかに生きるべきか?己の「行不由径」を今一度かみしめたいものである。


平成27年12月24日


 

動物から人物へ

先日動物映画の代表作「野生のエルザ」を鑑賞する機会があった。母親を亡くした二匹の赤ちゃんライオンが、人間の手で育てられ、成長して最後に自然に帰っていくまでの感動の物語である。
人間に育てられた動物園のライオンを野生に戻しても、野生化せず、狩猟が出来ずに死んでしまうという。
それまで人間から餌を与えられる環境にいたので、厳しい環境に置かれると、狩猟の仕方も身につけられないまま朽ち果てていく。
つくづく環境のもつ意味、役割は大きいものだ。


しかしよくよく考えると我々人間も、元を辿れば自然の中で狩猟しながら生きてきた。
やがて道具を使うことを覚え、今の文明化社会の中で生きていくようになった。
道具を使えるか否かが動物と人間の大きな違いであることは疑いの余地もない。


では、動物にあって我々人間(文明人)に失われつつあるものは何だろうか?
野生の逞しさではないだろうか?自ら狩猟することもせず、周りから餌を与えられるだけの環境では、自分に恃むという自助(自立)から遠のいていく。
大自然に生きるライオンは自助で苦しい時は自分に恃む以外、生きていく道はないのである。
その野生に生きる逞しさを人間は学ばなければいけない。


ここで野生について、徳川初代将軍家康と二代・三代将軍の違いについて紐づけてみよう。
初代家康は、数々の修羅場をくぐり抜け野生の「直感」を研ぎすまして江戸幕府を開き、二代目秀忠は、状況を「分析」整備し、武家諸法度、禁中並公家諸法度を制定し、三代目家光は、「直感」と「分析」を基に、新たな「戦略」、参勤交代、鎖国令を発令した。


初代は強い個性とパイオニア精神で未開の地を苦労しながら切り開き、道なき道をつくり、そこから先の道は、二代目が引き継いでいく。初代のことを尊敬しつつ、反面教師としても学び、基本となる根幹を受け継ぎ発展させていく。賢い二代目は初代の個性を主観(情)と客観(分析)の両方でしっかり観察している。
ただ二代目も初代と同じように、野生に生きる逞しさが必要である。最初だけは狩猟のやり方を初代は二代目に教えるが、二回目からは失敗しても手を出さないことを鉄則とする。我が子の自立を妨げないためにも、初代は我が子の失敗をじっと見て我慢することだ。確かに初代は野性的で荒いところがある。それが逞しい。本能(直感)で生きる動物に近いものがある。


その動物と対極にあるのが人物あろう。ではその人物とは一体どのような者であろうか?
人格(徳)と才能を兼ね備え、高い見識と決断力、志気(理想)、高邁な精神を持ち合わせ、経験から学んだ大器のある人を指すのであろう。
ただ人物と言われる人の中には、対極にある動物の要素(野生の逞しさ)は必ず含まれている。
それは、危機的な状況にどう動くかをみれば、それが人物であるか否かは判るものである。


人物像としては「粗にして野だが卑ではない」国鉄5代 総裁、石田禮助の生涯のように、自分を飾らず素朴武骨ではあるが、志をもって気高く、誠実で逞しい生き方をしたいものである。


これからの社会は激変していく。時代(未来)を担う若者には社会を逞しく生き抜いて欲しい。


動物から人物に・・・その前に私はまず人物の一歩手前にある人間(知性・教養・理性・思いやり)に
ならねばならない。


平成27年11月26日


 

白と黒の真ん中にグレーがある

物事に白黒をつけ、二者択一することは多々ある。
当社創業期、発注先から道理に合わない要求を押し付けられたため、当方の主張(正義感)を出し過ぎ相手と論争になった。後に相手側の上司も出てきて、最終的には当社主張が正しいことを認めた。
ただ公衆の面前で相手の顔を潰したため、その後取引を失った。苦い失敗談である。


正義が通じないとすれば世の中は乱れる。もちろん、正しいか、間違っているかを考えることは大切であるが、第三の道として、マネジメント=上手くやること(上手く事を処理すること)が求められる。物事は、白黒の正義、善悪だけでは片付けられないことの方が多い。
世の中はこのグレーの部分をいかに上手く裁くことができるかが最も大切なことである。


上記を一つ目のグレーとすると、もう一つのグレーも存在する。
成長する人の特徴として、出来ない(判らない)を整理する力がある。
①出来る・判る②どちらでもない(グレー)③出来ない・判らないの3つに整理する。
出来ないことを出来るようにするには、自分で調査する、人に聞く=質問・確認することが大切なことだ。


出来ない・判らないと不安に思う人ほど沢山の質問をする。安易に判りました、出来ますと言う人ほど危ない。
何故か?不安に思わないから質問も出ないし、事実確認をしないから事実も掴めない。
自分の思い込み、自分勝手な判断をすることが原因である。
感覚だけで聞いたり、話したりする人ほど事実確認は出来ない。
改善策として感覚を思考に置き換え、思い込み(感覚)を思考力に整理することが肝要である。


全体を100%として、20%が白(出来たこと・判ったこと)、20%が黒(出来ないこと・判らないこと)とすれば
残りの60%がグレー(どちらとも言えない)となる。


一般的には、主観と客観をきちんと整理して話す人ほど仕事が出来ると言われている。
ここで言う60%のグレーとは、主観(思い込み)と客観(事実・白黒)に整理できない部分である。
このグレー部分を時間経過と状況の変化によりさらに白黒に整理する。
そのプロセスの繰り返しにより60%のグレーの割合が白黒にシフトされる。


人生を変える80:20パレートの法則には「組織は会社を引っ張る20%のリーダー、60%のフォロワー、20%の問題社員で構成されている」と書かれている。この白と黒の真ん中にある60%のグレーこそが企業最大のポテンシャル(可能性)であることは疑う余地もない。このポテンシャルを引き出すことが企業の使命である。


実は人生においても、仕事においても、この60%のグレー部分をどう扱うかが大きなポイントのように思われる。
「白と黒の真ん中にグレーがある」我々はこれが人間社会の潜在的な力であることを忘れてはならない。


平成27年10月23日


 

Go back to the principles. - 原点にかえれ!

「過去をより遠くまで振り返ることが出来れば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるであろう」


これは私の敬愛する政治家の一人、英国元首相チャーチルの金言である。
「今日明日のことを考えるためには、昨日の記憶だけで良いが、長期的なビジョンを描くためには、先人から受け継がれた組織的な経験知に基づいた深い哲学がモノを言う」という意であろう。


過去、現在、未来の関係は、過去と未来の点を結び、その線上の中間点に現在がある。
過去は「受け入れるもの」、未来は「つくりだすもの」、そして現在は「生きるもの」とすれば、未来創造は、過去をどれほど深く紐解くことが出来るか?が重要になる。


同時に歴史には英雄、リーダーが必ず存在する。そのリーダーの役割の一つに、物事を正しく判断し、決断し、正しいと思われる方向に導くことがある。
では、「正しさとは何だろうか?何をもって正しいと思われる判断が出来るのか?」その判断基準が必要だ。


もちろん、自身の過去の失敗経験から学び、同じ過ちを繰り返さないとしても、自身が経験していないことはどう判断するのであろうか?その解決策として歴史から学ぶことが考えられる。
判断に迷うことを「チャーチルであれば、どう考え解決するであろうか?」といったように、歴史から学ぶことは、まさに正しいことを判断する上での悩みを解消するための道標となる。


もうかれこれ40前になろうか・・・カリフォルニア大学バークレー校で、学生達の討論会にオブザーバーとして参加したことがある。
その時に「かのアリストテレスはこう言っている。それを引用すると、このようなことが言えるのではないだろうか?」と古典の金言を巧みに使いながら討論する学生達の その説得力に深い感銘を受けた。それを今、私なりに応用した結果「歴史から学ぶ」に行き着いた。
シンプルな考え方は、哲学となり、「Go back to the principles. - 原点にかえれ !」が基本となる。


終わった事をいつまでもくよくよ考えていると、それで頭が一杯になり、新しいものが入ってくるのを邪魔してしまう。
新しいものが入ってくるためには、頭の中をいつも整理して、シンプルにしておくことが大切である。シンプルとは自身の哲学のことを言うのであろう。


歴史を学ぶことは、自分が経験していないことについて、先人の過去の知恵を借り、正しく判断し、時代が変わっても、不変である本質を知ることにほかならない。
その本質が次世代へ受け継がれていくことで、人類の英知は保たれていく。過去の過ちを現代人が繰り返さないことを切に祈る。


平成27年9月28日


 

自分をダメにする4つの原因自分論 「おごり・うぬぼれ・甘え・マンネリ」

「企業は人なり」という言葉がある。当初は「優秀な社員を多く育成することで企業は発展していく」と勝手な解釈をしていたが、会社経営を続けていく過程で「企業は人なり」のその「人」は、経営者そのものを指しており、企業の盛衰は「経営者の心掛け次第でどうにでもなる」ということが判ってきた。
そういう意味では、社長がダメになると会社経営も衰退するということになる。


では、自分をダメにする原因自分論の本質は一体何であろうか?歴史上の人物の盛衰期をみると「おごり・うぬぼれ・甘え・マンネリ」の4つが考えられる。


①おごりとは「高ぶって人をあなどる。わがままや無礼なふるまい。思い上がり」の意である。
人の上に立つ者は、自分を相手より下に置き、常に謙虚でありたいものである。


人は権力・財力を持つと自分を他より偉いと勘違いし、人を見下してしまうところがある。
「驕る平家は久しからず」また「織田信長、我は神なり」のように、権力や財力にまかせ、思い上がる者は長く栄えることができないことは歴史が証明してくれる。
昨今の政治家などにもそのような人をたまに見かけるが、残念なことだ。


②うぬぼれとは、自分の実力を過大評価(過信)し、得意になる様をいう。
「彼を知り、己を知れば百戦殆うからず」の孫子の兵法にあるように、敵の兵力を見極め、自分自身の能力を客観的に判断して戦に臨めば、百戦しても勝つことができ、危機に陥ることはない。己の力量、器を知ることが大切であると説いている。
豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵の失政がこれにあたるのではないだろうか。


③甘えとは、自分が相手に依存していることが判らず、人が施してくれることが当たり前
だと、人に甘えていることであり、周囲への思いやり、感謝がない状況を指すのであろう。
何かあれば人が悪い、会社が悪い、社会が悪い、と自己保身ばかり行っていれば、人心は確実に離れていく。リーダーがこれをやると最悪である。


④マンネリとはまさに惰性で生きている様であろう。人間は楽な方へ、楽な方へ流れていく。
嫌なことは、いつも後回し、改善をしないままに場当たり的に物事を推し進めていけば発展はとても望めない。


古くから組織が崩壊するのは外からではなく内からと言われている。古代ローマ時代の内部崩壊、中国古代の革命の歴史、フランス革命、ロシア革命、ソビエト崩壊、日本幕末期等、過去の歴史がそれを物語っている。国家組織は内部分裂により崩壊する。
その原因は「おごり・うぬぼれ・甘え・マンネリ」からくるものである。歴史の教えは大きい。


特に人心を掌握する立場にある企業経営者は、上記の自分をダメにする4つの「おごり・うぬぼれ・甘え・マンネリ」はあってはならないことである。
企業発展のための精神文化は日常の己の謙虚さから見出されることを肝に命じて、真摯な生き方をしたいものである。
何故なら企業経営はトップの生き様そのものを表すものであるから。


「実るほど頭を垂れる稲穂かな」- 稲穂が実る田園を車窓から眺めつつ。


平成27年8月24日


 

西郷隆盛-挫折からの再出発

長い人生の中で挫折を味わったことがない人はいるのだろうか?
もちろん生まれて間もない赤ちゃんや、幼年期の子供達には挫折はないだろう。
ただ、人生というものは大人になるにつれ、思いどおりにいかないこともある。


挫折と言えば、西郷隆盛が思い出される。歴史の表舞台に登場するまでには立ち上がれないような大きな挫折を二度も味わっている。


最初の挫折は、鹿児島錦江湾の海に、盟友月照と共に身を投じ、自分だけが生き残り苦しみぬいた上、藩から奄美大島行を命じられ3年の月日を島で過ごした。
その後旧友大久保利通の計らいで、藩政に復権したが、藩主島津久光に真っ向から反対意見を述べたために、久光の逆鱗に触れ、沖永良部島へ流された。


雨ざらしの2坪余りの牢屋の中に閉じ込められ、食糧、水もろくに与えられず、過酷な環境の中で、日増しに痩せ細り、体力の限界まで達した中、読書や瞑想を続けた。
しかし1年6カ月後に政局の激変から藩の危機を救うために許され、再度藩政に復帰した。
西郷はその二度の大変な逆境を経験し、その苦労が大きな器を培った。


人間の器が大きくなるには、四耐-人生、冷に耐え、苦に耐え、労に耐え、閑に耐え、以って大事を成し、ひとかどの人物になると言われている。
その中でも特に閑の時(自分の将来に向けて力を蓄える)があるか否かで、その後の人生が決まるといっても過言ではない。
挫折・逆境は人物たる器を養うためには必要な経験であるかもしれない。


松下幸之助 「人生の達人は、マイナスの中に価値を発見する人である。」


最初は弱かった自分が、挫折・逆境を乗り越えることで、強い自分になっていく。
かくいう私も人には言えぬ逆境を味わったことがあるが、その経験が現在の経営に活かされている。


現在逆境にある皆さん。挫折・逆境を乗り越えた向こう側の空には必ず明るい未来が待っていることを信じて、精一杯頑張ってほしい。


平成27年7月27日


 

上杉鷹山 - 三助の精神 ・ 自助(自立)・互助(協力)・扶助(信頼)

今月、私が敬愛する上杉鷹山公ゆかりの地山形県/米沢市に在る上杉神社を訪れる機会に恵まれた。
鷹山公は故ジョン・F・ケネディーが最も尊敬した日本人政治家としても有名で、明治の中頃の内村鑑三著書「代表的日本人」の中で上杉鷹山を取り上げ、英訳されたものがケネディーの目に止まったようだ。


上杉鷹山公(1751~1822)は16歳の時に上杉15万石の9代目米沢藩主となり、財政破たん寸前だった米沢藩の再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。


改革の本質は大きく、①見える形のもの(ハード=モノ・金)と、②見えない形のもの(ソフト=人の心/理念・ビジョン)から構成され、併せて仕組み(システム)としている。
有名な鷹山公の三大改革(財政の再建・産業の開発・精神の改革)では、「財政の再建・産業の開発」はハードにあたり、「精神の改革」がソフトにあたるのではないだろうか。


弊社はそのソフトにあたる「精神の改革」-三助の精神 ・ 自助(自立)・互助(協力)・扶助(信頼)」に傾倒し、10年前に当社の教育理念の核として人材教育を行っている。
ここで言う精神とは企業風土(企業文化)および土壌(環境)を指している。
当社アイナスはIT技術者のみを育てるのではなく、人間(技術者もひとりの人間)を育てる会社であり、何より人間には揺るぎない精神が必要である。


社員個々の心が自立しなければ企業の未来は無いにも等しい。何故ならモノ・金も人の心(精神)から生み出されるからだ。人が育った分だけ企業は発展すると言っても過言ではないだろう。
その人の基になるのが自立した個であり、個は他に依頼することなく、自分に恃み、自主自立する。そして精神的な独立を成し得た個と個が互助(協力)することでチームとなる。
個の点(自助)と点(自助)が繋がり、線(互助)となり、線と線は、やがて面(扶助)となり、チーム同士(部署)の垣根を越えた信頼の輪(和)が出来てくる。


ここにジョン・F・ケネディーによる大統領選挙での有名な演説がある。
「”My fellow Americans:Ask not what your country can do for you,Ask what you can do for your country.”」


「アメリカ国民諸君, 国が君たちのために何ができるのかを問うのではなく、君たちが国のために何ができるのかを問うてほしい」 自主自立の国アメリカを表わす何とも力強い言葉である。
鷹山公の教えから学んだ当社アイナスの理念、「三助の精神」の本質にも通ずる。


ちなみに昨年7月つくば市の講演会場で「小説 上杉鷹山」の著者である童門冬二先生とお会い出来き「当社教育理念は鷹山公・三助の精神の影響からきております」と申し上げた。
翌週会社に「歴史のおしえ」という本を先生のサイン入りで送って頂き、敬愛する歴史上の人物が引き合わせてくれた不思議な出逢いに感謝である。


弊社アイナスは本日で24年目を迎えた。
ここまで支えてくれた社員、社員の家族、お客様に感謝したい。
質素倹約でリーダとして範を示し、また見栄や格式を重んじる上杉家の中にあって現実と向き合い実を示した、上杉鷹山の生き様を見習い、今後の経営にあたる所存である。


平成27年6月25日


 

吉田松陰と知行合一(ちこうごういつ)

「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」
幕末の英傑吉田松陰が、失敗に終わった米国密航計画について詠んだ歌であるが、まさに己の人生を生き切った松陰ならではの句である。


NHK大河ドラマ「花燃る」では松陰は亡くなったが、このドラマの脈絡を流れる「己の人生どう生き切るか?」
は今も昔も変わらぬ永遠の人間のテーマだ。
個々の人生に大正解はない。それぞれの人生である。ただ己の志(目標)を掲げ、現実と向き合い、生きた道程にこそ意味がある。


松陰は中国思想家の王陽明(陽明学)の影響を強く受けており、その伝習録の中に「知行合一」がある。
では、知行合一とは何であろうか?
「知識と行為は一体であり、本当の知識は実践を伴わなければならない。知ることは行為の始めであり、行為は知ることの完成である」と書き記している。
私が敬愛するピーター・ドラッカ博士も「実践なき理論は空虚であり、理論なき実践は無謀である」とまさに同じことを述べている。


経営も全く同じである。経営は実行することに意味がある。いくら経営書を読んでも、セミナーに参加しても、実践しなければ何の意味もない。
ただやみくもに何でも実践すればいいというわけにもいかない。自分の志(目標)や課題等、本質に添ったものでなければならない。それを実践し知識は知恵となるのであろう。


知行合一はいたるところにある。弊社で今行っている新人教育も、また就活中の学生も、学校で勉強した知識を今度は企業で実践し活かさなければならない。
ただ付け焼刃的に面接時に知識をひけらかすよりも、今の自分が取り組むべき課題は何か?
その現実(今出来ていること・出来てないこと)と向き合うことが最初の入口であろう。
そこから課題を見つけ出し、自分の志(目標)に照らし合わせ、実践(経験)し自分を鍛えることに意義がある。
ただ実践(経験)がすべて成果につながるとは言いきれない。失敗することもあろう。それが一つの通過点(教訓)になればいい。
実践(経験)することを恐れてはならない。自己の実践(経験)から学ぶことで得ることは計り知れない。


すぐれた先人達から学び知ることを「知」として、それを己の信念とし、行うことを「行」としていけば、正しい成果につながると、松陰は信じて疑わない稀代の革命児であった。
知行合一を毎日の生活や仕事に活かし自分を磨いていきたいものである。


平成27年5月25日


 

人格が主人で、才能は召使い

4月に入り、企業では新入社員が入社し教育研修が行なわれていることであろう。
当社はIT企業であるが、専門能力だけ身につければよいのだろうか。
専門能力であるテクニカルスキル(ソフトウェア基礎 技術能力)は必須であるが、それ以上に大切にしているのはヒューマンスキル(社会人の基礎力)である。


何故か?社会人としての基礎が出来ていない人間は、建物に例えると基礎工事のないビルのようなものであるから、大きな地震が来ればたちどころに崩壊してしまう。
高いビルを建てようとするなら、基礎工事に長い年月を費やさなければならない。


中国の菜根譚の中に、人格と能力ではどちらかが重要であるかについて「人格が主人で、才能は召使い」という一節がある。
ここでいう人格とは、その人のもつ人柄、徳(五徳=仁・義・礼・智・信)を指すとするなら、人間力は人格と能力により形成されていると言える。
■人間力=人格+能力


菜根譚では何故、「人格が主人で、才能は召使い」と書き記しているのだろうか?
「才能に恵まれても人格が伴わない人は、主人のいない家で召使いがわがもの顔でふるまっているようなものだ」と付け加えてある。
自分の才能(能力)におぼれ、人格(徳)が伴わないため、人望もなく窮地の時がきても誰も助けてくれず、結果として人心を掴み取ることが出来ないということだろう。


人格と才能の関係で言うと、人格は土の下にある根っこのようなもので人からは目に見えにくく(陰)、才能は土の上にあり見えやすい(陽)。
人格だけ磨けば才能は無くても良いのかということでもない。
大切なことは、そのバランス(人格51%才能49%)である。


では、人は人格で動くのか?才能で動くのかで言えば、最終的には人格(人柄、徳)の方であろう。
人は今までお世話になったあの人のためにと、情や人格で動くものである。
場合によっては自分には無い才能がある人、自分以上に才能がある人を人格で動かすこともあろう。
また自分が歳を取っていくと、時代の変化と共に今まで培ってきた能力も、次の世代に取って替られる時も来る。
そうなると、次の世代の能力を束ねていくための人格とマネジメント(人の管理)がますます求められる。
特にリーダーにとっては、人格は不可欠なものである。そのためにもリーダーは特に徳を積まなければならない。


人格者であれば、すべて正しい判断を行えるのか?と言えば、必ずしもそうとは言い切れない。
人格者と正しい判断は別ものであると考えなくてはならない。それは過去の歴史が物語っている。
リーダーには能力+人格に加え、正しい判断を選択し決断することが最も大切なことである。


平成27年4月26日


 

益者三友-資質・環境・教育

3月から4月にかけては卒業、入学、就職、転勤と新たな門出を迎える人も多いことであろう。
新しい環境の中で多くの人と出会い、その環境に慣れるまでは誰しも大変なことである。


論語に「益者三友、損者三友」という格言がある。益者三友とは付き合ってためになる友が三、損者三友とはためにならない友が三という意である。
栄養価の高い良い土壌であれば植物もすくすく育つように、付き合っている友に恵まれると、互いに影響し合い自己成長できる環境が得られる。
良い環境も悪い環境も友達次第と言えよう。


当社教育理念の例え話に「土壌と種」がある。まず人間には本来の持って生まれた資質(種=DNA)があり、種を土壌(文化)の中に入れても、種から芽を出そうという意欲(向上心)がなければ芽は土壌から地上へと出ることはない。
地上へと芽を出すことが志(目標)であるなら、その原動力は意欲である。


まず資質(種=DNA)に優れ意欲があれば、どんな厳しい環境(土壌)でも芽を出すかといえばそれは稀である。
成長できる良い環境があることが不可欠であるからだ。
恵まれた資質、環境もない時、最後は教育の出番となる。


これを企業と人に置き換えると、①資質という自立した個(人)から、 ②自立した個と個同士が助け合い協力し合うチーム(企業文化)をつくり、③自立、協力をつなぐ信頼の輪(和)をつくる。


①資質(種=DNA)自助

②環境(土壌=環境=企業文化)協力

③教育=種+土壌(良い土壌をつくり種が芽を出そうとする意欲を育てる)信頼


2月コラムでは「人間の持つエネルギー量は先天的にDNAは多少は関係しても大差ないであろうが、後天的には個々の行動により膨張するような気がする」と述べた。
このDNAこそが資質であり、個々の行動により良い環境をつくり、企業が人を教育していくことで資質と環境をつなぐ信頼が出来てくる。
資質と環境と教育が合わさることで、人材が育ち、人材こそが社会の礎となる。


社会の中に於いてお互いが良い環境「益者三友」たるものをつくり出したいものである。
そのためには、自分も「益者三友」になるよう資質を磨き上げておくことが肝要である。


平成27年3月26日


 

人の持つエネルギー源とは・・・

私達の日常生活では、天気、空気、根気、元気というように「気」という言葉が広く使われている。
では、「気」とは何であろうか?人間が持つ精神の働き=エネルギーとも言える。
つまり人間は誰しも気(エネルギー)というものを持ち合わせて生きている。


人への挨拶ではよく相手に「お元気ですか?」と言うが、元気とは健康であるといった肉体的な意味もあるが、本質的には気が充実しているといった精神的な意味を指す。
まさに精神と肉体の関係は一体であり、「健全な肉体には健全な精神が宿る」である。
また元は、宇宙的な意味では「大きい」・空間的には「もと」・時間的には「はじめ」という意味であり、モンゴル騎馬民族国家の元という国名の由来はここからきたものかも知れない。


では、人間は生まれながらにしてエネルギー量が決まっているのだろうか?
先天的にDNAは多少は関係しても大差ないであろうが、後天的には個々の行動により膨張するような気がする。
そのエネルギー源は意欲(好奇心+向学心)であり、それがスパークして膨張すると、膨張量は知識量×経験値で表わされるのではないだろうか?


では、そのエネルギー源の意欲はどこから生み出されてくるのであろうか?そのエネルギー源は、自分がこうなりたい、こうしたいという志(目標)であろう。
志とはこの山に登りたいという山登りの最終ゴール(目標)である山頂である。
自分の意志でやり遂げたい志があるから、それが意欲となり、目標を達成しようとする意欲からエネルギー量(気)が湧き出してくるのである。


始めに気(人間の持つ精神の働き)があり、気から志(目標)が生まれ、志が意欲を引き出す、意欲は、今まで持ち合わせた知識量と経験値がスパークして膨張(精神)する。
つまり、人の持つエネルギーとは気であり、その源は志(目標)であり、エネルギー量はその人が志に向かい真に努力しているか否かで決まるのではなかろうか?


■意欲(好奇心+向学心)× スパーク(知識量×経験値)= 膨張量(精神的)


気という言葉は、元々米を炊くときに出る湯気を意味していたそうだ。
立ちのぼる湯気の如く、よい「気」が世の中に循環していくことを願う。


平成27年2月25日


 

知・仁・勇の三者は天下の達徳なり ー トップの英断

企業は人材が育った分しか成長しないと言われている。
何故か?その企業の経営資源は人・モノ(商品)・金・情報であるが、これらのすべては人から生み出されているからである。


事例として、当社アイナスの人材育成の根幹にあるのは底辺に、人として、社会人としてがあり、その上の階層に、技術者として、リーダーとしてがある。
人間力=人格+能力が当社の基本的な考え方であり、リーダーは能力を磨きつつ、部下を指導していく人格(徳)が強く求められる。人格が人の心を引き付けるからである。


では、その人格(徳)とは何か?「知・仁・勇の三者は天下の達徳なり」と中国古典・中庸に記されている。まさにリーダーの本質を言い表す言葉である。

■知=深い読みと、ものごとを適切に処理できる能力(判断力)見識(知見から学ぶ)

■仁=相手の立場に立って考える(人を思いやること)

■勇=決断すべきときに、きちんと決断できる能力(決断力)


「徳で人を動かせ」の徳とは人格、人柄のことを指し、自分より優れた能力のある部下達を、自分が持ち合わせた徳で動かせという意であろう。


ただ人間は生まれながらにして、資質、環境、教育すべてが異なる。
そして人間社会という環境では人は一人だけで生きていけない。その環境、教育を誰かが作っていかねばならない。
それがリーダーの使命であり責任である。


人をどう動かすことが出来るか?その答えが知(正しい判断力)仁(人を思いやる)勇(決断力)である。
特に勇は、危険を承知の上で、すべてのリスクを読み切り英断する、企業トップの業務の中でも最高峰の徳であろう(知は状況に応じて、一部を部下に任せることもある)


「本日天気晴朗ナレ共浪高シ」で開戦した日本海海戦で、ロシアバルチック艦隊を撃破した東郷元帥は、敵艦隊の3つの進入予測航路①対馬海峡経由②津軽海峡経由③宗谷海峡経由の中から、①の対馬海峡での捕捉迎撃することを英断した。
そしてかの有名な戦術「T字戦法、七段構えの戦法」により大勝利した。敵艦隊の進入航路においては参謀達が知(判断)を用い、その知の中から東郷元帥は勇(決断)を用いた。
この状況での勇はトップしか出来ないものであり、その決断を誤まると国が亡ぶ、天を仰ぐような英断であった。


まさに「知・仁・勇の三者は天下の達徳なり 」である。


平成27年1月1日